第1075話 理屈も訳も、きっかけも
- 2018/07/31
- 11:38

世のすべての武術や武道はそれなりの理屈が必要でしょうか。私達の太極は特に理屈というものが必要しません。体が一定の状態で動けていれば、体内に一定の流れる内勁ができれば、自然と相手との間合の中で勝機を得ます。太極または他の中国武術の内勁と言ったら、このような現象です。昔から中国では、力が大きいことを「功力」が大きいと言っていました。何故か最近になってこの「功力」と内勁が同一の物にされているようです。中国武術の行方を心配しているのは私だけではないでしょう。
わたくしの門下の数人は、私が普段に申す体の状態の理屈は理解できると申していて、私の体が実際にどうしてこのように動いているかは理解できないようです。まあ、私と同様に体が動けるならば、私の教えも必要がないでしょう。私はいつものようにレッスンの前に一定の太極拳理論を口にしますが、実際に太極の体の状態を少しでも近付くにはかなりの努力が必要です。私は今後、太極拳理論をできる限り少なく語るようにしてまいります。
太極は元々、理屈も訳も、太極の進歩はいかなるきっかけもありません。正確に申すと、太極はすべての人間社会の理屈や訳、すべてのきっかけからの離脱が中々できないことでかつての多くの太極拳家が悩んでいました。思い起こすとわたくしは若い頃にルネサンス期音楽の鑑賞にはまり、体に元気が溢れる程の歳月ではかなりはまっていましたが、古代の音楽は誤魔化しが一切効かずに単純であり、和音のパタンもいくつかで決まっています。それが例え60声部の無伴奏合唱であっても和音のパタンが決まっていて、どれほどに複雑に絡み合ってもパタンから外れる誤魔化しはあり得ません。いにしえより伝わる伝統は本来、語る必要もパタン化もまったく必要ありません。例えば、日本の能学はもはや西洋のような緻密な和音のはまりがありません。これこそ、東洋哲学と西洋哲学の違いだと私は体で感じています。
昨晩のレッスンでは、わたくしの一存で推手練習を中止いたしました。教室の経営では色々と違いがあって、知人が他所様の教室を見学していたら、教師が一人で会員が80数人状態で悲しいことで一部の会員が終始首を曲げて頭を後ろに向いて太極拳を練習していたそうです。わたくしの教室は10人くらいが限界にしております。当然、これは一人ひとりの会員が自身の状態になっていけることで、太極拳を教えることは、無心で太極拳の基本拳を繰り返し練習していくしかありません。
太極拳の動き、いわば多くの方がおっしゃる「順番のみ覚える」の順番は、そんなに簡単に覚えられるものではありません。正直に申すと太極拳の基本動作は永遠に完成できるものではありません。その理由はこうです。例えば、ロボットに太極拳のプログラムを記憶させて、そのロボットは部品の磨耗が何もなければ当然、いつでも同じ動きの太極拳ができるはずです。
人間はまず、ロボットのような骨格もなければ、部品もロボットのような金属で嵌っているわけではありません。わかりやすく言えば、人間はどの動作も完成できるわけではありません。
呉式太極拳のようにかなり覚えにくい拳法は多分、初心者にはあまり簡単ではありません。体が無心になって複雑な動きを覚えさせていくわけですので、時間はかかります。できる限りの正確な動作と脳の静粛の両立は本当に一定の時間がかかります。今後も定期的にしっかりと太極拳の基本拳のいわゆる「順番」を語ってまいります。
太極はできる限り毎日のように練習すべきです。


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