第1192話 授之至子来
- 2018/11/25
- 00:32

連日、楊氏老譜の中で最も肝心である張三豊の詩の奥深さを探求しております。本日も中国古代の言葉に触れてみたいと思います。
張三豊の詩は色々なことに触れられています。一般的に道教では、陰陽五行がかなりの展開を見せており、大きく分けるとすると、養生功は体が積極的に動かす方向へのものと静けさに近いものの二種類になります。これは、古代の言葉で申すと「文武」になります。
道教はまた更に、道徳が深い養生家を四つのレベルで分けています。所謂、真人、至人、聖人と賢人であります。至人は、真人の次の養生家であります。太極創始者と言われている張三豊氏は真人として拝められていますね。逆に、張三豊の詩の中には色々な異なる流派の養生術は至人のレベルではないと伝授してはならないです。
「至子」は至人に対する敬称であります。これで、皆様はきっと本日のテーマの意味が理解出来るようになりますね。
《荀子·天論》ではこのように述べていました。「…故明於天人之分,則可謂至人矣…」わかりやすく言えば、神と人間の違いがわかる者は、至人と言えます。もちろん、これが至人の定義付けではありません。
こう考えると、人様に養生を教える者は本当に品格が問われることになります。このわたくしならば、まだ「至子」まではかなりの距離があります。故に私は現在、太極拳を教えることが出来ても、流派を継承することはまだまだ無理です。
太極の神様のレベルの養生が自然に体に付いていなければ、色々な人間様のことが理解出来ていなければ、私は自身の養生もまだ成功していないはずです。養生は健康で風邪ひかないレベルの話ではありません。
すべての人間が理解出来るようになれば、神レベルの養生には少しだけ近付けるようになります。
太極を教えることは簡単なことではありません。


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