第1250話 行坐卧走、飲食溺溷
- 2019/01/22
- 11:42

本日も、所謂太極の神明がどのような状態であろうかの文書を分かち合いたいです。
難しい中国語の言葉、私の出来る限りの解釈もしてみます。義務教育が動乱の時代だった為、あまり自信がないですが…
「攸往」、中国古代の易経の中の言葉です。近代では原因と解釈しています。ちなみに、「所往」は結果になります。
「溺溷」、かなり汚い行動。
原文
則能階及神明、及神明、自攸往有由矣。有由者、由於懂勁、自得屈伸動静之妙。有屈伸動静之妙、開合昇降又有由矣。由屈伸動静、見入則開、遇出則合。看来則降,就去則昇。夫而後才為真及神明矣。明也、岂可日後不慎、行坐卧走、飲食溺溷之功。是所為及中成、大成也哉。
解釈
昨日の続きです。真の意味での懂勁では徐々に「神明」になることを昔の太極家が確信していました。しかし、私が弟子の皆にこのような訓示を与え続けています。
太極を含むすべての武術を最上級レベルまでに達するには、荊の道しかありません。幸い、正しい太極を練習するには怪我はありえないことと、健康にもプラスになることがあって、太極はプラス的な実感が多いです。これはたとえ、太極を一つの健康法として練習している会員の皆も同様に自信の体のプラスを感じているはずです。
「神明」はそれなりの原因があります。その原因は真の意味での懂勁です。懂勁があって、体のすべての動きと状態が整理されます。そうすると、体の縦と横の出入りは一つの動作として統合されます。相手の横の出入りに従って「開合」を行うことが自然にできます。相手の縦の出入りにしたがっては自信の関節全体も自然と上下の動きをします。この状態ではじめて「神明」と言えるのです。「神明」を頂いている者は決して日常の行いのすべてが品に満ちるはずです。太極家は、日常の行いで中成されたのか大成されたがわかります。
わかりやすく言えば、太極の教室を経営している者で、本気で太極学びたい生活保護者に学費を免除しても教えることの勇気があるか否か、お酒を飲んで街で人様に迷惑を書けるかどうか、歩きスマホをするかどうか、自身の実生活が人様に迷惑をかけているか否か、不正に立ち向かう勇気、歪曲されている事実や理論を訂正し続ける勇気があるか否か…
もちろん、太極の上級者はこれらが備わっていなければならないと思うと、私も自身の道がまだかなり遠いことがわかりますね。

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