第1284話 我という大敵
- 2019/02/25
- 09:21

太極で最もふさわしくないことと言えば、我を通すことであります。当然、真の意味での健康的な長寿を目指す方にしても、使える武術を目指し太極の訓練をされている方にしても、我を全面に出すことはまさに大敵だと言っても過言ではありません。
私は何度も日本人が他のどの国の国民よりも太極に適していると申し上げたのもこの点であります。わたくしが以前に勤めていた会社でも、多くの同僚がストレスを呑み込み、自分自身のすべてを殺してでも他人を引き立てていました。これほどの人間力は世界でも日本だけだと感じております。
まあ、もちろん、それは少し昔の話しです。つまり、私がまだ日本国の最後の「猛烈タイプ社員」を何とかこなしていた頃の話しですね。今日の日本国の企業はどのようになっているのかははっきり申すと何とも言えませんね。私は長い間、会社勤めしていないこともあって、適当にどうこうコメントをする資格がないと思います。
それでも、私が現在お付き合いをしている多くの日本人を観察していると、皆様が相当の人間力で人様の立場で自身の行動を決めている気が致します。周りの関わっている人と共に動いていく気持ちは、太極思想にかなり近いものであり、太極という武術は人を動かしたというよりも人が自身の動きの欠点で重心を失ったり、自分で自分の関節を動けなくすることになります。こうなると、僅かな相手を倒すなどの気持ちが現れていれば、相手が自ら敗れ去っていく結果には至りません。
当然、健康で長寿の太極も同様です。何か意図的に意識を掛けることもなく、一つひとつの動作は何一つも無理な身体機能的な頑張りをしないことが最も大切です。当然、ある程度の秘伝を教えていけば、一人の人間の全身の気を動かすことも出来ますし、気が自然に丹田に注がれていくことも可能です。
もちろん、僅かな我を通す気持ちと動作で自身の気を動けなくすることも沢山拝見しています。
太極は永遠に完成がない分野であり、東洋哲学の最も優れている輝くポイントは謙遜であります。太極拳は本来、これでもかと言う程に地味な存在であります。太極はもはや、すべての自己主張が必要ないですし、意識的に他人がやっていることと比較することも必要がありません。
太極の最上級の者は、我という見える形のものすらありません。本来ならば比較出来るものではありませんが、仏教が仰るように菩薩は人間のすべての相から離れるべきとのことに似ているかもしれません。
もしも、この考え方が間違っていれば、わたくし沈 剛がここで多くの仏教専門家の皆様に謝罪を致します。

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