第1285話 相対的な領域
- 2019/02/26
- 11:34

世には多くの哲学者が人間界と自然界において、絶対的な領域がないことを仰っています。太極は、人間の体を一つの小宇宙だと例えられることもあって当然、やることも成すことも相対的な考えが望ましいと思います。わかりやすく言えば、これは絶対こうだとか、こうではなければならないとかの決まりは基本的にありませんが、人間の体の決定的な状態に逆らうこと色々な乱れが生じるので、体の基本的な状態を守ることは大切です。
太極練習の手の位置が少し低いくらいならば、丹田気を邪魔することはほとんどありません。健康で長寿にも影響がありません。当然、丹田気が自身の末端と連携していないこともあって、武術としての太極では若干の影響が出ますね。太極という武術と言っても、細かさによる戦闘であり、決して粗末に一発を食らわすことではありません。どなたにしても太極を武術として使えるようになるのが短期間では無理です。
よって、太極門的な中国封建社会の産物とも言える、太極の最も肝心あところを隠すことはいかにいけないことかがわかります。はっきり言って、体の絶対的な使い方に関しては長い間、多くの人がいかにも当たり前に色々と想像して、いかにも間違っている身体操作をしているのは、今日のYOU TUBEを拝見すればすぐにわかります。先述のように太極はいかなる頑張りでも簡単に使える武術に到達できるわけではないので、絶対に譲れない体の使い方を出来るだけ伝えていきたい気持ちはいつよりも強いです。
太極はもともと、譲れない基本は当然のように一つの鉄則として存在すべきですが、微妙な手付きの違いや身体操作の違いはあまり無理に追求することではありません。かつての太極門の中でも、親子や夫婦、兄弟の動作が微妙に異なることもかなり多いです。太極は本来ならば、一つの動作の美しさを競い合うものよりも、自身の体の気がどのようなよい状態で体に回すのかが主要目的で練習すべきです。絶対的に譲れない身体状態以外はすべて相対的な存在であればよいはずです。
太極以外の武術や武道は、私がほぼ何もわからないですが、一つ言えるものがあるとしたら、それは、武は絶対的なものにしてしまうと非自然界的な存在になってしまうのではないかと思います。
おかげさまで、私は現在、太極を教える傍に一部の方の整体もしております。まあ、年に数回しか自由を作ることしかできません。今日に至るまで整体をさせて頂いている方のほとんどは、他の武術と武道を練習していました。その痛々しい怪我はどうしたのだろうかと伺うと何故か似た答えが出ます。世の中の武の教室は怪我は基本的に自己責任とか、強くなりたければ怪我はどうしょうもないので気合いで乗り越えとか、死ぬこと以外は全部かすり傷とか、無理に体を操作することで多くの方が武の練習で満身創痍になることは一般的に知られているようです。
人間の有限的な身体能力ですので、相対的かつ客観的に使いこなしましょう。人生の生涯に渡る怪我を背負っていたら、その人の人生はずっと苦しみと付き合うようになります。武を選ぶ時は是非、この考えを問い入れてみてください。

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