第1314話 無と絶望の元の練習
- 2019/03/26
- 11:36

私の少年時代が丁度、皆様がご存知の革命の終わりの頃に当たり、太極を練習する目的も学校の虐めが原因でした。はっきり言って、前の世紀の70年代の中国は正に暗黒の時代であると今日の中国政府も公然と認めています。当時では、都会でも娯楽が限られていたのですが、田舎では、娯楽がないと言っても過言ではないですね。私の家庭はまた、かなり封建的な考え方だったこともあって、幼い頃ではかなり寂しい日々を過ごしていました。まあ、来る日も来る日も太極が私の趣味でした。あの状態では、たとえ幼い人間でも一定の体の感覚が得られるはずです。
私はブログや色々な公の場で自身が生涯教えた学生が千人は超えていると何度も話しています。これによってどのように異なる体質の方への異なる教えでは一定の経験があります。実際、私を含めて、多くの太極練習者は太極基本拳の練習では数年かければ、一定の良い状態になるのが見込められますが、推手練習になると何故かたちまち、まったく異なる状態になります。特に、以前に他の武術や武道を練習していた方々ですね。それも当然といえば当然ですね。太極基本拳である慢架の練習は皆様を徐々に当たり前ではない状態へと導いていく訓練になります。推手になると人間の本能的な動きや他の武術の状態が出てくることは避けられないものです。この点に関しては、私の若い頃も同様です。
稀に、太極慢架や推手練習を少しだけ経験していて、慢架の状態と推手の状態がほとんど差がない人もいます。これは、中国の先生では「悟性」が高いと言いますね。日本語では悟りが良いと言う話でしょう。個人的な見解では、自身の体の使い方が悟られる人間は、仏教の中での菩薩的な存在になります。大乗仏教では人間がすべての人間的な特徴から解放されたところでは菩薩になると解釈しています。太極で誰よりも早く懂勁出来る者は人間的な特徴が少ないはずです。当然、こう言う方は人間的な当たり前の動きも割合に少ないはずです。まあ、このような独特な人間は数千面人に一人または数億単位に一人しかでません。
もう一種類の速い懂勁、つまり、僅かの時間で太極慢架と推手の状態が近付くことの間接的な要因は一種の生活様式になります。
これは、本日のブログのテーマでもありますね。人間は無と絶望的な生活をすれば、余計なことを考えないですし、無の中での生活ですので太極練習の際の脳の空っぽ状態も作りやすいし、希望も企画も何もない状態での練習は、人間の体を通常の状態ではない状態へと導くのです。
確かに、無と絶望的な生活環境の元では太極の悟りが得やすいデスが、私は今でもあの頃の生活を思い出すと一種の訳がわからない悲しみに包まれます。数年に渡っての限られている映画しか見られなく、好きな学習も不可能、食べ物も限られていて…このような生活はもはや近代人には想像できないでしょうね。
余談ですが、私の父方の叔父と、母方の叔母は現在、共に外国国籍を取得していますが、中国へ帰郷すると必ずと言ってもよいくらいに、かつての上海所払い先を訪ねるようにしています。彼らはやはり、どうしてもかつての無と絶望的な生活を忘れられないようです。
もちろん、無と絶望の是々非々は、人によって感じ方もまったく異なります。


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