
太極はいつの時代も柔らかいいめーがありますが、体が柔らかく見えたらそれで太極になることとは限りません。例えば、バレダンサーの動作は本当に柔の極めと言っても過言ではないです。しかし、バレダンサーは太極勁を把握したのだろうかというと答えははっきりしています。太極やその他の中国伝統武術をベースにしている制定武術は今日になってもマイナーのままであり、五輪の正式種目には中々ならないです。いつかいつかと、五輪種目にでもと狙っていたのは80年代初頭のころからのはなしですが、今日になっても中々それは実現していません。理由は様々だと思われますが、ただの柔らかさならば新体操はもっと上、難度動作ならば体操やフイギュアスケートがもっと上ではないでしょうか。制定武術は格闘としてもあまり合格とは言えませんので、五輪の正式種目として受け入れるのは当然、簡単ではないです。

逆に、伝来の家ごとで伝わっていた太極はどのように柔らかさを考えているのかをそろそろ考えた方がよいかと思います。太極はどのような柔らかさが必要でしょうかと、いつになってもただの体操のようでバレダンサーのような柔らかさで解釈すれば当然、太極本来の意味合いとは大きく異なっていきます。太極は今日になって、色々な異なる目的が現れたのですが、私が最も悲しんでいるのは、太極と名付けている色々な目的の分野がいずれも太極の本来の考え方を無視したり、蔑ろにしたり、かなり軽い気持ちでわがままで太極を解釈する者はかなり増えています。太極は少なくとも一種の養生術であり、適当に解釈すれば健康維持どころか体を壊す危険さえありますので、せめて、人様の体を預かる者はそれなりの責任があります。太極を理解していない者が本来、無責任に太極を教えてはならないです。
太極は、世間で言われているいわゆる柔らかさとまったく異なる性質の柔軟を要求しています。太極は、骨と骨の間の柔軟でどれほどの骨から骨への柔らかい力の伝達と言う独特の柔らかさを修練する気功の一種です。足を無理して高く上げることも、筋力を無理に駆使しての大きな動きは必要ありませんね。これこそ人間の体を哲学的に使う方法だと、昔から一部の人がこれを継承しています。そして、当然のように近代になって色々な異なる考え方が生まれ、今日のように太極は伝統的に考えられていた内面的な虚実のバランスはおろか、体操やフイギュアスケートのような高難度もなく、バレダンスのように外的な柔の極めを徹底的に追求したこともありません。
本日は難度のことはさておき、人間は無理して外的な柔軟を手に入れることに危険性は少し触れておきたいです。丁度、昨日にわたくしの弟子より相談を受け、彼は太極練習の際に「下勢」を懸命に低くして練習していたのですが、とうとう、右膝が少々痛みが出たようです。まあ、彼ほどに練習する人はいないと思います。彼は私のもう一人のご年配の学生と張り合って、年配の学生は1日30分の慢架を2回程練習しているようで弟子の彼は慢架を45分位かけて3回以上練習していますね。しかし、昨日の彼の動作を見ますと、どうしても筋力を使って何かをしようとのところは発見しました。人間は僅かに力で体を動かそうとすると虚実のバランスは必ず壊しますね。それをわかりやすく言えばこれは人間の内面的な硬さですね。
人間は少しでも無理して外的な柔らかさを求めれば、内面的な柔軟は必ず壊されます。

スポンサーサイト