第1421話 「意の探求」というカテゴリ
- 2019/07/11
- 08:42

また、新しいカテゴリを設けたくなりました。これは、太極は意を使って、力を使わないという言い方があります。よって、意はどのように使うのか、どのように意を感じさせるのかを説明する必要があります。もちろん、今後このカテゴリを書く際はいかなる議論も受け付けないことをここでお願いしておきたいです。世の中の色々な人が色々なほうほうで意を解釈していて、議論になってもきっと何の結果も出ません。ただ、双方が疲れるだけですね。中国という国の中ではまだ、伝統武術の界隈は封建社会的なルールで展開している分野が多く存在していることに反して、諸外国では中国武術の分野ではもはや基本的に資本主義の自由競争がほとんどです。数十年太極拳の練習をして人々に教える者と数ヶ月練習した者は基本的に社会の中においては平等な自由競争の相手の存在に過ぎません。ですので、いかなる場合でも今後のこのカテゴリに対しては如何なる議論も私は受け付けないことになっています。

勿論、以前にも書かせていただいたように、資本主義のもう一つのメリットというのが言論の自由です。私は他人を名指して批判していなければ、いかなる記事を書いてもこの国の法律で守られています。
世間一般では脳をいかに高度に集中して体を支配することを「意」として解釈しておますが、私達は基本的に違います。まあ、私が知っている限りではかつての太極門の他の流派も我々とは大同小異のような切っても切れない関連性を持っています。
結果から申し上げると、意は脳の高度な緊張ではなく、脳がほとんど体に指令を出していない状態で体が一定の自由を得て、体の各部分は互いの陰陽バランスが自ら調節できるようになり、ついに一定レベルの調和が出来た段階で脳がこれをパターン化することになります。意がうまく使える者はいつも脳の回転が穏やかで太極の動作も淑やかになります。もちろん、少しも焦るような太極の動きや日常生活の時の不安定はいずれもないはずです。
そもそも、古代の太極拳家はどう太極拳を考えていたのかは最近の近代社会においてはほどんど言及されていないでしょうね。正しい「意」の使い方が各家の中で一部のものにしか伝わっていないことはまことに悲しいですが、このようにいつになっても正しい理論をオープンしなければ、意の色々な誤解はいつになってもこのままになります。これは本当に悲しい事実ですね。
そして、一部の太極門の人間も何故か世間の適当な考えとかなり近い考えで太極を解釈しはじめています。まあ、こう考えると基本的に、太極門の師匠に拝師していれば、その発言は基本的に太極門を代表するものに化ける傾向も本当に怖いですね。
正論から申しますと、脳が体に対してほとんど指令を出していなければ、体の五臓六腑による五行の調和と、各可動の骨と骨の間に生じる虚実がすべてパターンとして脳に記憶されれば、これで意の使い方も完成に一歩近付いたことになります。明日は「以意行気」を考えてみますが、本日に述べてきた「意」の状態で練習を継続していけば、経絡の解放から来る気はきっと身体機能と五行の自由と共に自由自在に全身の動きに従って動くはずです。
もっと、時間をかけて、しっかりと練習して、徐々に体でこの感覚を理解していけばよいと思います。


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