第149話 もう少し実利でも
- 2016/01/24
- 00:31

近頃では、太極という世界の中で避けては通らない話をしつこくしてきましたが、当然のように色々な秘伝のような話は公にはできませんし、例え公開しても実際に一緒に練習しない限り簡単に理解できるとも思いません。ならば、もう少しわかりやすい話が多くの方に実利をもたらすことでありましょう。
確かに太極拳の細かい話に触れると、実に暗い話が多いようですね。日本語では「無味乾燥」という言葉がありますが、私もこれにぴったりする言葉の他にないと思っております。この結果として、大昔から太極拳は「十人九不知」との言い回しのような概念で知られています。これは実際にこのような単純が訓練を正しく繰り返しすれば、きっと奇跡のような結果が出るとの確信の有無が問われます。
そして、もう少し簡単な話とすれば、太極拳は何かの発勁の強さで勝負を決める武術ではないとでも申しましょうか。でも、この話をするといつものように色々な誤解が起きます。「お宅の太極拳は発勁がないのか…」、「お宅は何で勝負するのか…」などはこの2年半の間に常に聞かれてきました。
勿論、多くの方は真の強さを求めて実に長い間に本物の武術を探し求めて、結果的にこの私のところに来ました。しかし、私は武術目的の方に対しても健康目的の方に対しても区別をしたことがないです。勿論、比較的にお身体が弱い方に対しては進捗を若干遅らせることや簡単な気功法を増やす事くらいはします。
武術をスローガンとして掲げている私は当然のように太極拳なりの勝負をこだわってきました。呉式には当然のように発勁はありますね。しかし、他所の流派と違って発勁をしてもおそらく、どの時点で発勁したのかがはっきりわからないような発勁が主流でしょう。勿論、このように非常に細かい動きによる発勁は非常に習得し難いことも事実です。今日になって私の同門の皆もほとんど、力による発勁で勝負しています。しかし、考えてみると太極拳は必ず力で勝負するという武術ではないですよね。一部の太極勁より少々遠い方でさえ体の敏感度やテクニックで少ない力で勝つことを優先します。太極拳以外の方も太極勁による相手の弱点を崩す勝負法をします。ただ、太極勁ほどの細かさと速さと勁路が微妙に違うことで、一定の太極勁を習得している者と勝負すれば、なんとなくいつも読まれているような感覚になってしまいます。
こうなるとその方々は当然のように太極の感覚を大切にしてくれますね。私の研究会では20年近く修練したものを捨ててでも太極の感覚を覚えたい方がおります。しかし、私は入会希望者にはいつものように、太極勁があまり簡単に習得できないことを必ずお告げいたします。
私もかなり若い頃に今日では中国太極拳巨匠にまで上り詰めた方と交流したことがあり、その大師の方が全力で両手で私の片腕を掴み関節を完全に決められた状態で僅かな力で、あの先生をかわしたことがあります。勿論、流派の違いでその大師様のお名前を公表することが基本的な武徳を損なうことになる為、どのようなことがあっても決してしませんが、但し、太極勁の習得し難さは大師ににも一般人も平等です。
太極勁を修練することは、娯楽の実利は少ないと思います。あまりきれいではない動きを続け、その感覚を体に染み込ませ、体の脳の連絡をひたすらよくしていくことしかないです。
娯楽で太極拳を展開する方も私は立派に感じております。人々を喜ばせることは非常に立派なスローガンです。私も今後、太極拳教室の娯楽性を最大限に考えていきたいと思います。
一部の太極拳教室ですが、武術としても娯楽としても、なんのメリットも感じないですが、これは最終的に判断するのは利用者です。私達から何か判断することが断じてありません。資本主義社会はお客様が全てです。
日本のような平和の国は道場破りのような荒業はほとんど考えられません。よって、日本国でどれほどのレベルの人間も武術を教えてしまいます。
平和な国は、いつものように色々な出来事がありますね。
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