第1530話 太極はどのように練習すべきか
- 2019/10/26
- 10:03

いきなりこんなに大きなテーマを書くのかとおそらく、ブログを読んでくださった方々のどなたもびっくりしますね。それはきっとそうです。本日のテーマはおそらく一冊の本が書けるほどの内容があると思います。実際、最近のブログではテーマが徐々に大きくなっており、一番最後にはどのくらいの覚悟でブログを終えるのかで最近では少々困っております。そして、あまりにも難しい言葉を使うとどうしても読む方によって、感じ方が異なり、言葉への感じ方も人によって異なるケースが多いです。日本語を勉強すればする程にいにしえより伝わってきた言葉の難しさを感じており、最近では、私は中国語の古文と同じくらいに日本語の大変さを感じるようになりました。時間があれば、万葉集や古今和歌集、唐詩300首の日本語読みをもっと研究したいのですが、近代の日本語の難しさとほぼ毎日の太極拳レッスンの準備でこれ以上の学習が中々無理ですね。こう思うと私はいつも、いささかの悲しみに包まれてしまいます。これは、年のせいでしょうね。
太極、もちろん、太極拳を沢山練習するしかありません。そして、正しい教えに従うべきです。まあ、この言い方だと何も言っていないと一緒ですね。私の同門の中では本当に真面目に太極拳を練習している人がかなり多いですよね。しかし、結果がついてきたのかどうかというと本当にがっかりします。つまり、太極は結果がなかなか得られないものです。今日の私のブログで太極拳という言葉を使っていない時があります。これはただ、世界の色々な国の中で、俺は太極拳20年、僕はもう30年、私は太極拳用法の巨匠と…本日までまだ続いているFacebookリクエストのあらしではSHIFUからのリクエストが沢山来ていますね。自惚れに聞こえるかもしれませんが、私は世界の色々な太極拳大師と同じくらいで比べるのは本当に嫌です。よって、私は太極という言葉を使う時がほとんどですね。本日のテーマも太極になっています。

呉式太極では一般的に静、柔、慢、切、恒という要点がありますが、わかりやすくいったら、ゆっくり動くことは人間が筋肉や随意筋を最低限度を使っての全身の運動です。もちろん、人間は腰椎を動かないで骨盤だけで左右の動きをリードするならば、人類がたとえ筋肉を使わないで動くことも体の一部に限られてしまいます。初心者ならば手足だけの動きになってしまいます。静とは、脳の空っぽにして体が色々と複雑な動きを繰り返し動かすことです。同様にこのような動きも体の末端から徐々に全身に広げ、脳の指令のない状態での動作も当然のように短い期間では習得できる見込みはありまえんね。そして、色々な動きが確実に行われているかどうかで我々が人類自身現在の情けない状態から徐々にはなれる極めて重要な一環になります。今日の世界の多くの太極拳を拝見していると実に人類の体の好きなままで動いているものがほとんどですね。太極はこのように人間の適当で正確ではない練習で大分壊れています。恒はおそらく近代人にとっての一番無理なところです。会員の一部は仕方なく、深夜で太極を練習しているようですが、私も時間が取れない時は同様の練習時間になります。私は時間がない時は空港の展望デキなどでも練習いたします。本来は太極の練習は定時定量がベストとされていますね。太極の柔は誰も言っているはずですね。稀に太極は剛しかないだと言っている教室もありますが、これはさすがにいんちきでしょうよ。しかし、太極の柔も当然結果であり、太極の柔は一つの関節や部分的な柔らかさではなく、全身のすべてのパーツとジョイントが統合されている柔らかさがもっとも大切は話しになります。
全身の骨格の柔軟から人間の骨がそれぞれ、互いに邪魔しない状態になることも可能です。もちろん、これは昔の太極の家ではどこも共通していました。一般的に我々の呉式太極拳に一番遠いとされている陳式太極拳の19世の先生とお会いした際にそちらのお話しを伺ったところ、この点に関しては我々とまったく同じ見解を示されました。これこそ、「用意不用力」という何十年もかけて修練すべき結果であり、教える人間が話しをすればすぐに習得できるものではありません。その為に呉式太極拳はいかなる動作に関してもできる限り筋肉を使っていない状態で動きます。例えば、前進後退の際に足が蹴っていくことではなく、力で無理してゆっくり動くことでもありません。前進後退では動く足を自然に地面から軽く離陸して振り子のように重力に任せていく理想を訓練しています。起脚する際が軸足の筋肉を使って立ち上がらず、蹴る足も力を使わず、足を上げる為には腹筋や背筋もできるかぎり使わないようにしています。人間は力を使ってしゃがむと足は当然疲れます。一部の呉式太極拳がまったく理解していない人間が白鶴亮翅を終えたところに何故か立ち上がっていますが、筋肉の疲れだとうは思いますね。この場合は筋肉を使わずにして体重を自然に足にかかっているならば、白鶴亮翅が終了するところでは逆に重心が自然と少し下がるくらいになるのが私と先代馬岳梁の心得でございます。
このように長いブログを書いて、これはあくまでも色々とこれからも呉式太極拳研究会及び上海鑑泉社の宣伝に過ぎません。実際に私が申し上げることを理解したいのならば、一緒に練習するしかありませんね。ブログや書籍で人間の感覚である太極を習得することは到底考えられないと思います。


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