第1557話 行拳走架
- 2019/11/22
- 13:19

このような言葉ですが、今日の中国でもほとんど語らなくなりました。それもそうです。一般的に中国という国では太極拳のイメージを伺うと、高難度動作が含む自選難度太極拳になりますね。今日の中国も学歴や国の大会などでそれなりの実績などの見える形、華麗な形ではないと人々が認めなくなりました。日本国だとまだかなり古い太極拳のイメージが残っているようです。何かの会合でわたくしが名刺を差し出すと多くの方は初対面でもかかわらず、必ずゆっくり動くと言うイメージを言及し、中には体で太極拳のゆっくり動くイメージを表現しながら私に問いかける方も少なくありません。日本国の一般人の中でも人間力の生涯学習されている方が多く、自選難度太極拳は一種のスポーツであるとの見解は何度も伺っております。これは、今日の中国もかなり日本国の高度成長の頃に似ており、人々はテレビを見ただけで、または身近に接した人がたまたま自選難度選手を接しただけでのイメージで太極拳を語る人が増えましたね。もう少しわかりやすく言えば、今日の中国人はもはや人間力を養成している暇も余裕がないと言っても過言ではありません。当然、富だけを手に入れて、人間力がかなり低い状態で銀座で爆買いすれば、街を汚くすることも避けられないでしょう。
おかげさまで、私の本部である鑑泉社は現在なんとか頑張って、「非物質遺産」の申請を最終段階にかかり、これが国の登録成功であれば、文化遺産とスポーツ種目の違いで我々は自選難度太極拳とまったく異なる分野である証明を得ることになります。これで、我々はもう少し中国で呉式太極拳の展開に有利になりました。鑑泉社の太極拳は主流である主張は私はこれからもして参ります。よって、これからは色々な「非物質遺産」に相応しい専門用語も紹介していかなければなりません。本日からは新しいカテゴリを設けて遺産級の太極を説明して参ります。
「行拳走架」、これはもともと、太極を一つの武術と養生を両立させる為の練習法になります。流派によっては、「十三勢功夫架」などの名前も使われています。少なくとも今日の中国の六大流派や趙堡忽雷架などの流派では「行拳走架」という言葉が通じるはずです。これは、一つひとつの動きがすべて所定の位置に至ったのか、しかも、それぞれの動きの中に断点がなかったのかがかなり大切です。世の中では、一つひとつの動きをはっきりさせる為に一つひとつの動きをほとんど単独にさせてしまう太極拳が沢山みられています。当鑑泉社傘下の太極拳教室や組織も太極練習の中で断点というはっきりした単独の動作を避けられていません。当然、太極は永遠に完成できない人間の体の修正であり、誰であっても謙虚に自分自身の体と向き合う必要があります。
中国のネットで一部のまったく太極としての練習になっていない者に対して、「行拳走架如滑西瓜皮」との言い方があります。中国の言い回しでは考え方や動作がまったく定まっていない人のことをよく「滑西瓜皮」と言っています。つまり、西瓜の皮を踏んでしまえば滑るわけですが、どこまでどの方向に、どのように倒れるとかはまったくわからないですね。太極の動作がまったく所定位置まで行っていないとか、「起勢」と「収勢」の位置がからりずれるとか、骨盤や尾骨が出っ張ったり捻ったり、力で体勢が大きく傾けたりしていれば、このような太極拳は健康どころか病気を作るしかありません。くれぐれも、注意して練習に当たりましょう。共に頑張って参りましょう。


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