第1572話 無と虚の会話
- 2019/12/07
- 08:31

昨日は作曲家で日本文学にもかなり深い研究をされているご年配の先生を訪ねました。彼は最近にも本を出版しています。もちろん、時代の流れとして、彼の考え方にひかれた出版社は紙とネットn同時出版をしていますね。先生は今年で81歳になり、最近では脳卒中も2度ほどにやったことがあり、それでもなんとか杖で懸命に外に出かけて、毎日のように歩行の訓練をしています。その先生は個人的に私に日本語を教えてくれた方の一人であり、人様に接する際にはかなりの紳士的な態度で人々は彼には何についても聞きやすいところがかなり魅力的に感じます。もちろん、一人の人間としては彼も彼なりの欠点があり、彼は間違っている理論に対しては厳しく、それらを批判する際にはどうしても個人に対する態度が批判的であり、これならば日本社会ではどうしても彼から離れてしまうことがありますね。私は可能な限り彼と色々な会話をして、年齢からすると自分自身の大先輩に当たる方の悩みを定期的に伺っています。近年では私も色々と休日が少なくなってきたことがあって、先生の悩みを聞く時間も体力も段々と減ってきましたが、懸命に日本古代の文学やそれに関連する哲学を懸命に研究している方の悩み私の日々の勉強にかなりプラスになっていることがあって、一石二鳥のカンセラーはできる限りやっております。
昨日の先生が書かれた本では短歌です。今日ではかなり西洋風に生きている日本人でも、日本古代の考え方で色々な近代的なものに接していることはこの私もかなり感じておりますが、昨日作品の内容からすると、何かの宗教的な出版物と言うよりも人間の生と死、一人の人間としての生き方の問題集のような著作ですね。昨日の色々な会話の中で日本の仏教的な無の話題も出ており、個人的には先生が仰る無は道教が考える無とかなりの違いを感じました。これは当然長い間に中国から来た漢字が使われていく歴史の中での色々な変動によるものだと思います。今日の中国人は一つの漢字による言葉と日本の言葉の意味が異なってもどちらも正解だと思っています。長い間に日本に棲む人間としては漢字の異なる 解釈も一般的な言葉では特に不自由がないですが、日本の古典的な考えを知ることは日本語の原点になると確信しており、私は徐々に日本の古代文学を研究していくつもりです。
日本古代で考えている「無」は実際に道教が考えている「虚」に近いです。わかりやすく言えば、道教の「虚」も日本古代が考えている無もどちらかというと人間がなんだかの努力によって得た体と脳の状態でありますが、道教は本来の何も訓練していない段階でも既に世界では無の境地が既に存在しており、たとえかなりの修行で得た「虚」の状態を長く維持することによって、人間はいつかは世界の原始である本当の意味の無を悟ることができるのだと確信しています。世間ではよく、無極から太極へと言う理論を太極の基本だと主張される人が多いですが、「無」を作るべきかそれとも無は世界または人体の原点であって無理して訓練すべきではないかは今日の哲学者の中でもかなりの議論が交わされており、一言で結論ができるものではないですが、太極修練の中ではより効果的にけ結果が自然に現れることを考えるといかなる意識で体を動かすことを理論として展開することは太極の正反対の考え方になります。
もちろん、何も考えずにしてただ、体をまったく無目的で動くだけでは、すぐに結果が欲しい方には無理でしょう。日本古代の色々な短歌を読むと、何となくあまり緊張がない状態で何となく静粛な自然や激しく動いていない物事を描くものが多いですね。よって、日本古代の武術も本当に地味なものが多いです。これは中国最古の武術としての太極の前身である養生術も同様です。我々の体はどうしても動くことが必要になってきますが、動きの中でいかに原点的な「無」に近づくとかは太極拳の練習も大切ですが、現在では一部の教室で徐々に時間をかけて練習している八門五方と言う古代的な人間の原点の「無」に迫る訓練の 大切さも昨日の対談で感じました。太極は元々、我々の本来の状態への一種の訓練であります。共に頑張らないで頑張って参りましょう。自然体で頑張りましょう。


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