第1591話 自然に帰す
- 2019/12/26
- 11:07

人間界のすべては自然に従うべきだと考え出したのはおそらく「道」がはじめてではないかと思いますが、はっきり申すと各分野のすべての達人も色々と試行錯誤を重ねて、最終的に得た結論はどちらも自然に帰すべきと悟りが開かれます。個人的にバッハの音楽がかなり好きですが、しかし、何故か中国人や日本人奏者のほとんどがあまり好きにならないですね。その原因は色々とあって、一つは色々とバッハ演奏の色々な理論にこだわり過ぎていて、バッハ演奏の教科書に拘り過ぎて、私の造語からすると、自身の脳で無理して体に色々な指令で支配しようとすれば、体全体が硬くなり、バッハ音楽も何故か重たく感じますね。なんか、ばたばた、ドッカンドッカンって感じですね。特に中国人奏者はこのタイプが多いです。
バロック音楽は今日までもう既に数百年の歳月が流れています。これはおそらく太極の600年起源説よりは短いと思われますが、しかし、バロック音楽時代のいずれの作品も著作権が解禁されており、その音楽も奏者によって解釈がいろいろです。アジアのどこどこという某国のなんちゃら最高学府の解釈は必ずバッハの国に通じるとは限りません。この点に関しては太極も同様ですね。大極は600年の歳月で中国国内では大まかに六つの流派に分かれており、太極はこの六つの形しかないとも限りません。この6通りの練習法で誰かがかなり成功したから、国の方針によって一つの独特なグループが望ましいから、流派として自然に成り立つわけですね。当然、中国と言う国の民間武術流派は国がある程度の賛同がなければ、流派としては成り立たないと思います。
600年の太極と重ねる音楽はルネサンスの初期です。あの頃の音楽も現在の日本国で色々と演奏されていますが、指導者によって、解釈も異なりますね。教科書も色々とあるようです。自由な国では誰だってお金を出せば、本の出版は簡単にできますね。出版社は懸命に懸命に研究して、なるべくその専門知識に従ってやるところもあれば、ただの金儲けで、または競争に勝つために何でも適当に書くところも多く存在しています。音楽の専門家に伺ったところでは、古代作曲家の考えとほとんどあっていない書籍も存在しているようです。そして、私は音楽家の方々よりも逆に聴かれましたね。武術の分野にも同じではないでしょうかと、もちろん、その通りだと思います。
古代音楽家がどのように演奏されるのかは今の誰もわかりません。バッハの音源はほとんど残されていません。しかし、音楽は半音と全音の異なるパターンで並べられており、今日の人間でも探求すればバッハと異なるパターンの素晴らしい音楽が生まれるはずです。しかし、今日の作曲家はバッハと同じくらいの影響力の作曲は何故できなくなったのかは私も深く考えていますが、最終的な結論がまだ得ておりません。がしかし、今日のバッハ研究者はバッハの演奏を聴いたことのある人はいないと思われます。よって、いかなるバッハの研究もこれが必ずバッハ本人の考え方にあっているかどうかは誰もわかりません。当然、自然体で何も考えずにバッハを演奏する方は、バッハの残されている音符に隠されている凄さがもっとも引き出されると思います。わかりやすく言えば、奏者は体のすべてを無にして、この状態で自分の体を通してバッハの残された音符に融合すれば、バッハは自然に現れますね。
太極は、バッハの音符の代わりに、素直に自分自身のできるだけの動きをするだけです。そして、推手は、素直にもう一人の人間に自身の動作を融合しています。世の中でも楽譜通りに演奏できずに、色々とミスタッチする奏者がいると同様に、太極の練習も本来の動作から離れた動きがかなり多いです。バッハは楽譜通りではないといけませんが、太極も太極の理想の動きがあります。無になって、太極を練習することは自身の体への理解になります。自身の体が上手く理解できないならば、太極推手も上達しないと思います。自慢話ですが、今日の呉式太極拳研究会には音楽奏者の方も来ています。これはきっと、太極が音楽に共通しているに違いがないですね。


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