第1592話 合気の真似
- 2019/12/27
- 11:14

個人的な色々な確執と、今年は度重ねる親友や知人の旅立ちで連日にかけて、重い話題や悲しい話題ばっかりでブログを綴ってきましたが、これではブログをご覧になっている方々には申し訳ないだろうと、さすがに年末の今頃になって感じ始めました。私は悲しい出来事があれば、一層の練習に徹しています。そして、周りの者の旅立ちで自身の残る時間を数える習慣もあり、二人の師匠から伝授された色々なものを失わせたくないも自然と強くなります。こういう時に回りの真面目な生徒さんは懸命に学ぶ気持ちでいっぱいですが、私自身はというと、自身の実力の停滞から来る焦りで足枷にならないよういつも自戒を繰り返ししていることは事実ですね。
ところで、昨日は真面目な合気道の学生さんが色々と大変な仕事でご自分の合気道道場の教えもままならぬ、久し振りに練習をしないと合気道の手もおかしくなったとおっしゃったこともあって、私はおそらく人生ではじめて合気の手を懸命に真似して喂勁してみました。学生のかなりご満悦な笑みからすると私の真似はある程度似ていたかもしれませんね。もちろん、太極拳の教室ですので、私は太極の開合と虚実の原理はすべての武術や武道の動きに共通できると説明して、太極推手の喂勁も懸命にしました。練習中に、地元の合気道の師範も覗きに来られたことは今朝ほどになって地元の町で噂になっていますが、私は昨日も夜の一杯の時間がなく、地元の噂はいつも時間差で私の耳に届くようになりますね。まあ、田舎町独特な雰囲気でこれも楽しく感じるようになりました。今朝ほどの私にまつわるおわさ話では、あっちの旦那の太極拳は合気道ににているとのことでした。はい、合気の当身の練習もあり、太極の十三勢の練習もあって、太極虚実の攻めと開合の喂勁もあって、何を言われても私はいっこうに動じることがありません。
話題が変わりますが、金庸小説の中で書かれている武術の達人が秘伝をもらって懸命に練習していたら、世の中のすべての武術を見るだけですぐに覚えてしまい、直ぐにその武術を使うとその武術の達人にすぐに簡単に勝ってしまうようです。金庸も呉式太極の記名弟子であり、我々の流派の中でこのような達人は実際にいたことは私も先代かっら伺っていますね。今日の鑑泉社太極拳の大元と言えば、「三世七」継承の宋遠橋17世の者ですが、彼は中国の清朝から民国まで生きていた実際に人物であり、清朝の社会の乱れによって、武術家は毎日のように挑戦や交流させられるのは当たり前でしたね。宋氏はいつものように色々な方の攻撃を上手く交わしたり、分散したりして、出来る限り相手に怪我をさせないしていたようですが、時々、相手が空回りしている技を真似して、相手よりもきれいに正確に相手をさばいてしまうそうです。相手はびっくりして、宋先生はいつうちの秘伝の技を勉強されたのかと伺うと、たった今あなたが伝授したと答え、実はこの技はこうこう使わないといけないと指導し始めるのです。その中、指導を受けた数人は元々の武術から離れ、宋遠橋の拳法を学ぶようになったそうです。もちろん、これは私が先代より伺った話しであって、先代の二人も実際に宋氏に会ったことがなく、呉式創始者から伺ったことに過ぎません。
中国武術は元々、内面の動きを無くしたらどうにもならないことは不動の真理です。今日でも多くの人が完全に間違っている内勁練習法で懸命に訓練していることはまさにこれを語っています。内面的な力があれば、すべての武術への解釈も異なります。たとえ一つのかなり簡単な武術動作に於いても本当に豊かな難しい技へと生まれ変わるのです。このレベルになるともう世の中のすべての武術の技を見るだけでも、内勁で解釈できる為に、その武術の数十年練習した達人よりも上手く使えるはずです。こう書くとまた世の中の色々な人間が俺も俺もと、何十年も内勁の練習したなど色々とご意見が出されると思いますが、実際の内勁とはいかなるものか、内勁の正しい訓練はいかなるものかは、個々の感性に任せるしかありませんので、私が語る楽しい物語は四方山話として聞き流しましょう。まあ、45年間の太極修練で他の武術としての喂勁も出来ることは昨日に証明致しました。これは年末の一つの明るい話題ですね。


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