第1624話 斯技旁門甚多
- 2020/01/28
- 12:38

本日も王宗岳太極拳論からの一句ですが、発端は学生の一人が呉式太極拳の色々な套路や武器套路が難しく感じて、家で動画を見て勉強しようとしていますが、中々うまくいかなくてストレスでも感じたと言ってこられましたね。もちろん、結論から申しますと太極のような感覚的動作は実際に師匠のところで懸命に学んでも中々自分のものにするのが簡単ではないです。世の中は少しでも覚えれば何級、少しでも覚えれば何段で学ぶ者のモチベーションを維持するのはよいかもしれませんが、三ヶ月で何々太極拳を習得したとか、太極拳は簡単だとかで動作だけが何とか成立すればよいとの解釈は本当に広がっています。そして、昨日に私は研究会の会員様には家で動画をみながらの学習でストレスを感じる内容があれば、それを中止すべきだと申し上げました。何とか形だけでも似てきた基本太極拳の動画での復習や研究に徹したほうがよいとも勧めました。呉式太極拳の乾坤剣や七星剣は中国国内でも知名度の高い難套路であり、動画での学習はうまくいかにのが当たり前です。
太極拳論原文、
…斯技旁門甚多、雖勢有區別、概不外壯欺弱、慢譲快耳!有力打無力、手慢譲手快、是皆先天自然之能、非關學力而有為也…
翻訳は日本国のネットでもいろいろとされていますが、中国語がどのくらいの学習をされたのか、太極への理解はどのように行われ、誰が太極のすべてを導いてくれたのかによって、太極拳論の解釈も異なります。
王宗岳の時代でも既に太極に対する色々な憶測が乱立していて、適当に解釈している人間も多くて、当時は更に、色々な武術が太極を蔑ろにしては太極を適当に侮り、いわゆる拳論が申す「旁門甚多」ですね。太極を理解していない状態でも、太極を否定する面々でも基本的に体がでかい者が体の小さい者に勝ち、手の速い者が手の遅い者に勝る状態になります。これらは人間の生まれつきの機能的な武術です。俗に言う一発から一発への考え方です。体の状態を人間の本来の自然状態は自身の当たり前の動きではない動作を徹底的に訓練していかないと結果が出ません。もちろん、どの太極拳が反当たり前の動作であれば、それが本物に近いと思います。このような太極拳は練習してみると優雅でもなく、練習法は時々硬く感じる場合もあります。そして、私が簡単に柔らかく動いている動作が学生の方々がかなり硬く感じているのは、これはただ、私の練習年数が長いからです。
これほどにはっきりしていれば、もう沢山の悦明も必要がないですね。自分の体ができるだけ楽にして練習する人、どう練習しても普通の日常の動きと変わらなくていかにも簡単に体が動けて、その套路はいかにも早く覚えられるのならば、これらは私の考えからすると基本的に太極とは無関係です。
練習をして、何となく普通の動きではなく、練習者も何故かぎこちなく感じれば、これはきっと本物ですよ。しかし、私の会員様の多くも実は自然と体がこのようなぎこちなさから逃げようとしています。私はそれらの動作の違いへの修正は実は、皆様の動きをもっとぎこちなくさせております。もちろん、これは私が作ったぎこちなさではなく、太極拳は本来、ぎこちない動きを徹底的に取り組んでいるからです。こうなれば、私はまた一部の偉い太極拳先生の批判を受けるようになりますが、彼らの見解は太極は「行雲流水」、「不用力」…ではないかとのことです。すみません、「行雲流水」、「不用力」は人間の体の当たり前の状態から離脱したところの状態です。私を批判している皆様、本当に太極をわかっているのでしょうかね。
会員様には私の指摘の記録をお勧めしております。何故かと言うと、私はどの動きが太極として必要な動きかを知っているからです。中国で絶対的なトップである二人の師匠と自身の45年間の訓練で申し上げる体の感覚ですので、今後も出来るだけ多くの方に伝えて参ります。


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