第1637話 勁を沈めるという表現
- 2020/02/10
- 15:02

昨日から本日の日付の変わるまで、中国太極門責任者の一人とネットで1時間も議論を重ねました。まあ、色々と太極への理解の違いは感じております。もちろん、議論の相手はかなり懸命に練習を重ねているのは事実ですし、昔から色々と研究を重ねていることもあって、私は太極門の中でも最も尊敬している一人です。当然、見解の交換ですので喧嘩はしていませんが、議論の焦点はネットで宣伝されている某巨匠の実力云々で久し振りに深夜の1時間の議論は互いにかなりの色々と収穫も得たと思いますが、意外にも某巨匠は来日もしていて、大体の実力は当然ながら私のほうが把握しているものの、昨日の議論相手は意外にも中国にいながら、例の巨匠についてはネットでしか拝見していないとかで話しは結構手間取っていましたね。話しによるとネットで例の巨匠の動画を拝見しているといくらかは内力があると、昨日に議論をした太極門責任者の方が言うのです。責任者のネットグループでは彼の学生のほとんどが例の巨匠の動画をアップしてはべた褒めしていて、実際に手を合わせたわけでもないのに、この人の実力はいかなるものかはこのようにネットで議論すべきものかと言うと本当に微妙でしょう。私は、知り合いが例の巨匠と手を合わせたことがあって、巨匠の本も拝読しておりますので、私は昨日、太極門責任者の者には例の巨匠は詐欺者であるとはっきりと話しました。色々と議論を交わした結果、私は基本的に足や下半身で地面に踏み込みや沈みをしてはならないと理解して、親友の太極門の者もそうですが、例の巨匠は足を軽く踏むと強く主張していますが、体の一部分で受けた抵抗が足元に到達していなければ、足元を軽くすることも空しい空想だけではないかというのが私の見解になります。そして、太極門の親友との議論の分かれはこうです。親友は私と同様に踏み込みや体を下に沈むことは賛成しないのですが、内勁がしたへ沈んだかどうかとの見解を示していますが、私は、人間の内勁は決して脳の指令や意念で沈むものではなく、一方的に内勁が足元だけに沈んでしまうことができたにしても、体全体が空っぽではないかと、当然、とことん議論しました。これは、すべて練習結果の議論になりますので、かなり友好的な雰囲気の中で行われましたね。
中国語の気沉丹田という言葉ですが、どれほどに多くの誤解を起こしたのかはまったく理解できないですね。お腹に力を入れては丹田、意念で全身の気が丹田に集まっていれば内丹。結果から言ってしまえば、この状態がもしも現実になったら、その人はきっと動きがかなり鈍くなるのか、またはこの人が寝たきりになっていますね。
よく、太極推手は虚歩という言い方で説明しているのですが、虚歩はただ、無意味に懸命に骨盤を後ろに下がればよいことでもないですし、骨盤を懸命に地面に下がればよいわけでもありません。肝心なのは人から受けた抵抗が全身のどのレベルの隅々へと伝わって、どの統一されているレベルで吸収されていくのかになります。
太極のもっとも、難しいところはおそらくここです。昨日の議論は私達のそれぞれがなんだかの収益があったと感じているはずです。私はこのような数十年の秘伝を隠そうともしていません。どなたでもやれるもにならば、やってみてください。このような状態ができれば、太極の達人は本当に増えますね。


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