第1643話 勁断、気の流れ
- 2020/02/16
- 08:45

太極の上級者の状態を表すとしたらよく、「勁断意不断」という表現を用いて説明しますが、では、そもそも勁とは何か、意とは何かの質問になると答えも色々と出てきますね。元々、太極勁が云々では太極の内面的な動きを習得するための身体の動かし方になります。わかりやすく言えば、太極は正しい動作の訓練ではないと内面的なものを得ることは不可能です。初心者の方からすると、動きである勁は絶対的に止まってはいけませんが、太極上級者の者では、内面的な動きが完全に繋がっており、たとえ体の動作が止まっても内面的な動きは続いています。このように体の内面で気が完全に自由に動けることが一般的に「以意行気」と言っていますが、上級者は動きを止まっているように見せかけておいて、相手が止まっている動作に対して何かの行動が出た途端に内面的な動きが自然と流れ出て、このようなパタンにはいかなる武術も対応できないのが理想形ですが、太極の「勁断意不断」はかなり上級者の勁路であり、そこまでに到達するのは誰でも簡単に実現するものではありませんね。
一方、世の中では今日、実に色々と気功やゆるゆる太極拳などが流行っていますね。中国の改革開放の頃に気功がはやり、気が如何に関節に力を入れない状態であれば、うまく流れるとの説も多くの信者がいました。一部の気功師や太極拳愛好者も我々に質問をしてきました。呉式太極拳は何故、手首をそこまで曲げて耳の横に置くのでしょうか。これでは気の流れはわゆくなりませんかと、面白いことにこれとまったく同じご質問も今日の日本国でもいつものようにされています。私の答えはいつも一緒ですね。
一、手首が曲がっている理由は手首よりももっと緩めないところの緩みの練習になります。
一、人間は誰でも手をゆったりと動くか、自然と腕が垂れていれば、指先や掌は熱くなったり、指先は太くなったりする感覚が現れます。しかし、これで体中の気が動いたとは言えません。そもそも、体に複数の動けていない関節や骨格が実際に存在しているのならば、気が体中に自由に動くことも不可能です。
一、人間は一つの事に懸命に脳で考えるとかえてそれの実現は不可能になるケースが多いです。太極は、じーとして体を動かないことや、体の一部だけが緩んでいるのならば、内面的に気の流れが得られず、いくら練習しても結果がでません。指先の緩みだけや、脳のイメージだけでの緩みは気功にも太極にもなりません。
本日は一見、何の関連性もない二つのテーマについて書いてみたのですが、世の中に誤解が異なっていても何故か誤解の結果がぴったり合ったりしますね。一見、ゆったりで動きも繋がって見えてくるのですが、我々の動作の中のちょっとした作った動きで実際に内面的な動きを止めてしまうことが多く、逆に我々は手首と言った最も緩んでいる関節を緩んでいれば、手首だけ気が通っていれば全身の気も通ったとの誤解はもはや世界中に広がっていますね。
人体は基本的に十四の基本経絡で繋がっていると東洋医学で解釈されていますが、この十四の経絡が完全に繋がっていて、しかも、それぞれが完全に通っている状態になると、人間はどれほどの全体の緩みが必要でしょうか。我々は、どれほどの筋肉の緩みが必要でしょうか。これらの専門知識がなく、ただ、想像だけで色々な経絡に気が通ることは有り得ないです。具体的に申しますと、ある程度の胸椎の間が開けなければ、心臓の経絡も胆のうの経絡も繋がることがなく、たとえ、胸椎の伸びができたにしても我々は年や飲食、ストレスの原因でそれらの経絡のどこかに何かの問題が起きてしまいますね。簡単に気が体に通っていると解釈しないでいただいて、毎日のようにしっかり体全体が緩めるように確実に訓練をしましょう。くどいようですが、人間の気は想像だけで体中に走ることは有り得ないです。


スポンサーサイト