第1656話 还可以往下
- 2020/02/29
- 11:36

これは見事に中国語のままのテーマですが、師公馬岳梁の言葉でもあります。もっと下へ行けるはずだと言っていましたね。少年時代の私が師公の子供の皆と一緒に練習していた際に言われた言葉です。師公は我々のお腹に手を軽くやるとたちまち全身が重くなって、思わぬ体の重心がなくなったのですが、師公馬岳梁は本当に軽く触っただけですね。当時は、私達の誰も理解できなかったのですが、今になるとようやく理解したと思います。それは、師公が自分の内勁で我々に内勁が自身の体に充満して足元に到達することを感じさせてくれたと思います。当時では、師公が言うまだ下に行けるとのことは実際に、私達の体の位置を下に押し込んでもいないのに、何故、もっと下へ行けるはずなのかは本当に理解できませんでしたね。
本日は久し振りにカテゴリの馬岳梁語録を書いています。
近代中国語の文法はどちらかと言うとかなりデタラメと言っても過言ではありません。古代文学も一つの漢字が自動詞であったり他動詞であったりして、近代文学はこの辺、特に大変に軽率に感じますね。
太極の内勁は決して体の体の一部に集めることではなく、体全体に満ちていくものであって、この状態で何とか体全体でリアルタイムに相手の気配を常に把握していく内面的な作業であります。
体に内勁で満ちることは簡単ではありません。私達の体は色々な動けない関節や骨格があって、内勁も当然通れません。内勁が体に満ちるようになるのは体のすべての関門を開く、専門用語で申すと全身の虚実が実現した状態であります。気はまず。丹田に集まることではなく、丹田をどうにか通ることが大切です。
上級者は体中で満ちる内勁が溢れるほどになり、徐々に丹田に溜めるようにはなりますが、内丹はす十年ないし一人の人間の生涯かかってしまうほどに歳月がかかります。いかなる意念でもこの状態にはなりませんので、ご注意ください。
当時の師公馬岳梁は丁度、世間では巨匠気功師が一千キロ先に気を送って患者の治療を行ったことが流行り、国家の高官までが特殊能力を信じていた頃でした。師公馬岳梁は当時このように質問をしました。「気功の大先生の気が曲がるのですね、一千キロならば、気が曲がらないと相手に到達しないではないですか」と、これは当時の新聞社のインタビューに答える時にマスコミを通して質問したことで私と同世代に人間であれば、知っている人も多いはずです。
後に、当時の中国の気功師はすぐに鑑論して、地球の裏である米国に気を送ったそうですね。
師公馬岳梁が我々に自身の内勁で気が体に満ちることを体験させていただいてから40年近く立ちました。今日の私はやっと、自身の体で内勁(気)が一定レベルの充満感を得ています。もちろん、まだ師公ほどの重厚な感覚ではありません。
気は何とか自身の体の外へ放出することはどれほどに困難かは、自身の体に気が満ちている感覚を知っている人ではないと中々理解できないものですね。
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