第1669話 少し重い靴
- 2020/03/13
- 10:47

明月 幾時より有るや 酒を把って 青天に問う 不知ず 天上の宮闕
本日は先代馬岳梁の命日です。先生は98歳でこの世を考えられないかたちで去ってゆかれたのですが、私の人生の中で規格していたのは彼が120歳でも普通に生きることでした。もちろん、沢山の聴きたいことも聴けていませんし、もっと、先生と盤手練習をしたかったのですが、結果的に今日になって私自身の多くの練習は先代が残されている言葉で試行錯誤で試していくしかありません。
ところで、昨日の靴はお正月の時に妻と散策して、大バーゲンの靴やで安く買ったナイキの少し重いエアです。まあ、普段はほとんどの教室ではもう少し軽いお靴か上履きですが、自分にとってのお洒落な靴は何故かいつもよりも少々重いだけで、それでかなりバランスが取れないのは今まではあまり感じなかったです。まあ、私もこの7年間ではかなりのマンネリ化された仕事のパターンで過ごしてきたこともあって、何とかバーゲンで安いものを手に入れるのも最近の出来事ですので、いつもと変わらない生活から少しずつ変化しはじめたのもここ数年のことですので、何となく少しお洒落になったのは事実です。頭が大分禿げているのも事実ですし、この年になると自分の体の内外で色々と懸念するのはおそらく私だけではないでしょう。しかし、昨日の弟子らと一緒の太極慢架は、僅かだけ重い靴を履いただけで何故か進退がかなり不自在になり、足を上げる際は何故かかなり重く感じてしまい、自身の足が鉄のように感じて中々上がりませんでした。まあ、弟子と一緒の練習ですので、私は何も恥ずかしいことがありませんね。皆は私が練習中に頭が真っ白になれば、套路の間違いもしばしある位ですので、私の足がほとんど上がらなかったことにかんしては、まあ、今日の調子はもしかして悪いのかとでも思っているとは思いますが、でも、本当のところは私の弟子らは最近、例え私と一緒に練習していても各々がかなり集中していて、周りの風景がほとんど見えなくなってきたのも事実です。ならば、私の足があまり上がっていない位は昨日は誰も見えていなかったのです。でも、練習終了後では私はきちんと皆に話しました。もちろん、説明したのが自分自身の調子ではなく、太極拳の名付け親の名言でありました。
太極拳論曰く「…一羽不能加,蝇虫不能落,人不知我,我独知人…」、まあ、この地上に本当にこれほどに傲慢な言い方があるのかと思うと私はいつも不安でいっぱいです。太極を練習してもう40数年ですが、この年になって、自分自身の命があとどのくらい残っているのもはっきりとわからなくなってきた今頃、昨日はやっとのことで太極はたとえ羽一本と蠅一匹の重さの違いでも自身の重心が崩れてしまうことを実感いたしましたね。
がしかし、太極拳論の「人不知我,我独知人」はまさに神の領域であり、これは、太極の上級者がもはや時間も空間も超えて、この世のいかなる強さも太極とは比べるもののできない空しいものになると言っているわけですので、私はいつも自分自身に伺っていますが、自分自身はこの世を去るまでこのレベルのものにどれほどに近づけるのか、そして、太極は本当にそこまで無限なのかと、この疑問はこの45年も太極を練習してる私さえいつも感じています。まあ、先代馬岳梁の凄さは私は肌で感じていましたのですが、しかし、先代も、「人不知我,我独知人」まで実現できていないと申していましたね。これは、先代の複数の子孫も証言しています。
では、太極は果たしてどこまでが無限なのか誰も知らないではないかと思うと、私はいつものように不安な気持ちでいっぱいです。
私は太極門の責任者の一人として果たして、どこまで太極を明かしすることができるのかと思うと、いつもの不安はまた更に深まる一方です。
ここで、突発的に太極とまったく関係ない話しさせていただきます。
去年の年末に最愛の親友である音楽家の酒井先生が他界。去る少し前に先生は自分の弟子にこう言いました。別に僕の言った通りでなくてもよいですよ。僕はいつかはいなくなるが、皆は自分の音楽のセンスでもっと音楽を探求してくださいと、これは何故か、先代馬岳梁が太極の原理は一つしかなく、どの流派を練習しても結果に辿り着くはずとの発言にかなり似ていると感じましたね。
どの分野も極めれば、何をやっても問題がありません。もちろん、酒井先生の弟子は短期間で酒井先生を超えることは極めて難しいことは、私が中々先代を超えられないこととも似ていて、一人の偉大な賢者を超えるのは簡単ではありません。どの分野も基本中の基本を着実に守って行かない限り何の結果も得られないはずです。「一羽不能加,蝇虫不能落,人不知我,我独知人」は、一種の理想の境地であり、これまでも多くの太極家がこれを目指してしてきましたが、これに少しでも近付けるのが私の目標です。
最近、また一部の所謂なんじゃら太極拳を十数年も練習した人間が私にコンタクトして近付きたいようですが、しかし、同等レベルの振舞いならば私は基本的に受付しませんのでご了承ください。太極の流派名が聴いたこともないのに何故お付き合いが出来るのでしょうか。でっち上げられた流派は何故中国六大流派と共通の言語があるのでしょうか。
私は実際、無名の流派の方とも付き合っております。それは、あくまでも先方がよい人格の持ち主であるからです。いちなり、自分と同等レベルでの色々な要請はお断りです。意味のないお付き合いは時間の無駄です。
封建社会では、手抜きしない太極拳は家の中でしか見せません。私は研究会の中で出来る限り、かつての家の中の太極拳を教えております。これは、家の中の太極拳の短縮版です。 会員様募集しております。
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