第1705話 毫厘はいかなるものか
- 2020/04/22
- 11:27
今後、いかなるネット上の議論は応じないこととさせていただきます。皆様のコメントは基本的に答えないことになります。質問は、会って、可能な限りお答えします。
一定レベルまで「懂勁」すれば私は喜んでお答えいたします。もちろん、この場合はネット上でも公にします。

昨日のブログで「差之毫厘、失之千里」を言及しましたが、私達の日常の練習の中ではどのような違いが「毫厘」といえるのでしょうか。私達のどのような考え方がいけないのかを整理することも大切かと思います。
「毫厘」についてあまり難しく考えなくてよいです。大切なのは言葉の意味というよりも言葉の本質が大切ではないでしょうか。「毫厘」、寸法の中の最も短い単位です。今日の言葉で申すとミクロです。
太極はミクロの違いで結果的にまったく身を結ばないものであり、これは太古の昔からの鉄則です。私は基本的に自分自身の流派しか知らないので、自分の流派ならば色々とアドバイスは可能ですが、他派の太極についてはどうこう申し付く立場でもないですし、実際に練習していないこともあって、いかなるずれも理解できないことが事実です。
日本国でよくある何式はどう思うのだろうかとか、どこどこ流派はどうだろうかとか、呉式はどこの流派の支流だろうかとの様々なご質問や勝手な決めつけはもううんざりですが、何かのしっかりとした教えを得ていなければ、独立して流派を立ち上げることは有り得ないでしょう。何かの絶対的な凄さに触れていなければ独立する力も有機もないです。このような話しは私が中国太極門拡大会議の中でもめいめいと申し上げました。日本人は特に他の流派などを触れると失礼である感覚が強く、中国人は逆に自分の流派と他の流派を天秤にかけられるなどでは一般的に腹が立ちますね。でも、昨今の近代中国人の世界観も人生観も昔とかわり、逆にネットで色々と議論や他人に批判などが流行っているようですね。これが伝染病のように日本や諸外国までも広がっています。人が記事を書くと必ずコメント、いかにも自分自身がわかっていることのアピールはよいとして、実際のところのネットの色々なコメントがテーマよりもずれていることがかなり多いです。「毫厘」どころではないですね。
話しを戻らないと本日の記事は終えないので、それぞれの練習の動きにしても考え方にしてもずれが多いのはしかたがなく、私が記事一回分で語り尽くせるものではないと感じています。
自粛で一人で練習している会員さんが多い中、私達があってはならないずれに触れることは大切でしょう。
日々の練習の中で
一、両足の横幅は取れていますか。特に開胯の後。
二、前後の移動の際に軸足は蹴って移動してはなりません。その時に上半身も移動してはなりません。百会は基本的に脊椎の中心線です。
三、手を上げる時は肘はどこまで落としていますか。手は中途半端に下がっていませんか。
四、片腕が前方へ伸ばす際に「手斜身正」はできていますか。
五、弓歩は前傾していますか。その際に尾骨は上がってはいけない、後ろの足は協力伸ばしてください。
六、虚歩の際に、上半身はまっすくになっていますか。両膝は横の一直線になっていますか。
七、馬歩の際には尾骨がかかとの後ろに来ていますか。膝の外側は足の外側と立ての一直線になっていますか。
八、顎は下がってはいけません。首は常に伸ばしているべきです。
九、頭は空っぽになっていますか。
……
これらが呉式の日常の「毫厘」ですが、まだまだ沢山あります。
これで俺はもうわかったとはおっしゃらないでください。私と一緒に練習してきた会員の皆様は私が何を書いているのかが大体見当がつくと思いますが、よそ様はなにを言っているのかはただの推測になります。
このような記事に対して、議論やコメントを書くこと自体がおかしいと思いませんか、一部の人は人様のブログを読んで、俺の先生が教えている内容と重なっていると勝手に考えて、こういうことだろうかと平気で聴いてきますが、まったく異なる内容に気付きもせずにして、アマチュアでプロの人間に対抗心を持つこと自体がおかしいです。
一言「毫厘」、これは沢山の太極の基本の集大成です。
流派間を比べるにしても、太極門流派間のことを知り尽くしている者ではないと基本的にしてはならないと思います。
封建社会では、手抜きしない太極拳は家の中でしか見せません。私は研究会の中で出来る限り、かつての家の中の太極拳を教えております。これは、家の中の太極拳の短縮版です。会員様募集しております。
一定レベルまで「懂勁」すれば私は喜んでお答えいたします。もちろん、この場合はネット上でも公にします。

昨日のブログで「差之毫厘、失之千里」を言及しましたが、私達の日常の練習の中ではどのような違いが「毫厘」といえるのでしょうか。私達のどのような考え方がいけないのかを整理することも大切かと思います。
「毫厘」についてあまり難しく考えなくてよいです。大切なのは言葉の意味というよりも言葉の本質が大切ではないでしょうか。「毫厘」、寸法の中の最も短い単位です。今日の言葉で申すとミクロです。
太極はミクロの違いで結果的にまったく身を結ばないものであり、これは太古の昔からの鉄則です。私は基本的に自分自身の流派しか知らないので、自分の流派ならば色々とアドバイスは可能ですが、他派の太極についてはどうこう申し付く立場でもないですし、実際に練習していないこともあって、いかなるずれも理解できないことが事実です。
日本国でよくある何式はどう思うのだろうかとか、どこどこ流派はどうだろうかとか、呉式はどこの流派の支流だろうかとの様々なご質問や勝手な決めつけはもううんざりですが、何かのしっかりとした教えを得ていなければ、独立して流派を立ち上げることは有り得ないでしょう。何かの絶対的な凄さに触れていなければ独立する力も有機もないです。このような話しは私が中国太極門拡大会議の中でもめいめいと申し上げました。日本人は特に他の流派などを触れると失礼である感覚が強く、中国人は逆に自分の流派と他の流派を天秤にかけられるなどでは一般的に腹が立ちますね。でも、昨今の近代中国人の世界観も人生観も昔とかわり、逆にネットで色々と議論や他人に批判などが流行っているようですね。これが伝染病のように日本や諸外国までも広がっています。人が記事を書くと必ずコメント、いかにも自分自身がわかっていることのアピールはよいとして、実際のところのネットの色々なコメントがテーマよりもずれていることがかなり多いです。「毫厘」どころではないですね。
話しを戻らないと本日の記事は終えないので、それぞれの練習の動きにしても考え方にしてもずれが多いのはしかたがなく、私が記事一回分で語り尽くせるものではないと感じています。
自粛で一人で練習している会員さんが多い中、私達があってはならないずれに触れることは大切でしょう。
日々の練習の中で
一、両足の横幅は取れていますか。特に開胯の後。
二、前後の移動の際に軸足は蹴って移動してはなりません。その時に上半身も移動してはなりません。百会は基本的に脊椎の中心線です。
三、手を上げる時は肘はどこまで落としていますか。手は中途半端に下がっていませんか。
四、片腕が前方へ伸ばす際に「手斜身正」はできていますか。
五、弓歩は前傾していますか。その際に尾骨は上がってはいけない、後ろの足は協力伸ばしてください。
六、虚歩の際に、上半身はまっすくになっていますか。両膝は横の一直線になっていますか。
七、馬歩の際には尾骨がかかとの後ろに来ていますか。膝の外側は足の外側と立ての一直線になっていますか。
八、顎は下がってはいけません。首は常に伸ばしているべきです。
九、頭は空っぽになっていますか。
……
これらが呉式の日常の「毫厘」ですが、まだまだ沢山あります。
これで俺はもうわかったとはおっしゃらないでください。私と一緒に練習してきた会員の皆様は私が何を書いているのかが大体見当がつくと思いますが、よそ様はなにを言っているのかはただの推測になります。
このような記事に対して、議論やコメントを書くこと自体がおかしいと思いませんか、一部の人は人様のブログを読んで、俺の先生が教えている内容と重なっていると勝手に考えて、こういうことだろうかと平気で聴いてきますが、まったく異なる内容に気付きもせずにして、アマチュアでプロの人間に対抗心を持つこと自体がおかしいです。
一言「毫厘」、これは沢山の太極の基本の集大成です。
流派間を比べるにしても、太極門流派間のことを知り尽くしている者ではないと基本的にしてはならないと思います。
封建社会では、手抜きしない太極拳は家の中でしか見せません。私は研究会の中で出来る限り、かつての家の中の太極拳を教えております。これは、家の中の太極拳の短縮版です。会員様募集しております。
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