第1706話 体のバランス
- 2020/04/23
- 11:39
今後、いかなるネット上の議論は応じないこととさせていただきます。皆様のコメントは基本的に答えないことになります。質問は、会って、可能な限りお答えします。
一定レベルまで「懂勁」すれば私は喜んでお答えいたします。もちろん、この場合はネット上でも公にします。

このようなテーマでは多くの方が自然と健康法に連想されるのですが、実際のところではこれが武術の最も不可欠な哲理であり、元々、一種の武術は人体のしっかりとしたバランスが強さの保障であり、言い換えれば、50、60でこの世を去っていく武術屋はその武術も決して強いとは言えません。
「道」では、五行に対して、「怒、喜、思、悲、恐」という五毒との考えがありますが、これは元々中国古代の七情六欲から来ています。幼い頃では師匠の二人の教えでは、五毒を「喜、怒、哀、楽、愁」として説明していました。その意味はほぼ同じことです。
七情六欲は儒教も仏教も、道も言及していますが、何故かそれぞれのモチベーションによっての解釈も若干違います。中医学はほぼ道の解釈に従っていて、それは丁度、道が一番人間的な哲学を語っていることの証拠にもなりますね。
道や中医学では儒教や仏教と少し違う考えを持っています。我々の流派の研究では一般的に七情六欲をこのように並べています。
七情、喜、怒、憂、思、悲、恐、驚。五行に直接に影響あるものは「怒、喜、思、悲、恐」になると説明しています。
六欲、眼、耳、鼻、舌、身、意。わかりやすく言えば、視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚と意念です。
七情六欲のいずれも行きすぎだと人間の体のバランスは当然、崩れます。
仏教の一部では、六欲を単に人間の六種類の性欲のような説明があったと伺っておりますが、これはかなり偏った考えだと個人的に感じております。
太極の本来の考え方では、いかにも無理した体の訓練をせずにして、人間の気持ちと欲望も最小限度に抑えて、もちろん、自分自身の考え方や感情もあまり表に出さずにして、黙々と練習をしていることが非常に大切にしています。
私はこういう練習をすれば強くなれるとか、私はいくらお金を払えば、この秘伝の技を一瞬にして自分のものになるとか…そして、私はいかに他の人にこの技を教えていかに払ったお金を取り戻すとか、中国武術の一部の流派では、自分が如何に師匠の技を習得して強くなって、如何にして自分の師匠に勝てるなどを企てている人間もいるらしいです。まして、いかなる秘伝も一日して身につくことがないはずですが、豊かな七情六欲を持つ武術の訓練は最終的に強さを手に入れることが不可能です。
武術の強さははっきり申しますと、七情六欲にほとんど影響されない性格が必要でしょう。もちろん、人間の健康も同様に考えられています。
健康も武術も人生も、落ち着く中でしっかりと黙々とやるべきことを続けていれば、その結果が自然とついてきますと、これが本来の道の教えです。
モチベーションによって、七情六欲の解釈が異なってくることが今日になって、私は非常に面白く感じております。世には色々な哲学があり、日本国の哲学の論文は世界のどことも違うと感じているのは私だけではないですが、国民に合った哲学を語ることは特に間違っていません。しかし、日本国民は色々な哲学を選ぶ権限があり、情報自由、言論自由の国においては、どの学問においても糸口が見出せない現実はもはや回避できない結果ですね。
私も今後、もっと冷静に間違った太極観点を批判する際に感情的になりすぎないように、自身の健康と武術に悪影響がないように修行すべきだと感じております。
人生は修行です。毎日のように色々と異なる考え方が我々を刺激しています。学校の教育は学業も大切ですが、人間力養成の手助けも大切に感じています。
大人は自分自身の感情をコントロールできると言われています。個人的には、感情をコントロールすることで喜、怒、憂、思、悲、恐、驚も自然と出てきます。ならば、我々は自分自身の感情を徐々に変えることができれば理想ですね。
仏教では、「喜、怒、憂、思、悲、恐、驚、眼、耳、鼻、舌、身、意」を完全に無くす修行が成功すれば、人間は成仏できると考えられていますが、これはおそらくすべての宗教の中でももっとも厳しい修行になります。
私はこのようないとたかき理想を最大の敬意を払っています。
封建社会では、手抜きしない太極拳は家の中でしか見せません。私は研究会の中で出来る限り、かつての家の中の太極拳を教えております。これは、家の中の太極拳の短縮版です。会員様募集しております。
一定レベルまで「懂勁」すれば私は喜んでお答えいたします。もちろん、この場合はネット上でも公にします。

このようなテーマでは多くの方が自然と健康法に連想されるのですが、実際のところではこれが武術の最も不可欠な哲理であり、元々、一種の武術は人体のしっかりとしたバランスが強さの保障であり、言い換えれば、50、60でこの世を去っていく武術屋はその武術も決して強いとは言えません。
「道」では、五行に対して、「怒、喜、思、悲、恐」という五毒との考えがありますが、これは元々中国古代の七情六欲から来ています。幼い頃では師匠の二人の教えでは、五毒を「喜、怒、哀、楽、愁」として説明していました。その意味はほぼ同じことです。
七情六欲は儒教も仏教も、道も言及していますが、何故かそれぞれのモチベーションによっての解釈も若干違います。中医学はほぼ道の解釈に従っていて、それは丁度、道が一番人間的な哲学を語っていることの証拠にもなりますね。
道や中医学では儒教や仏教と少し違う考えを持っています。我々の流派の研究では一般的に七情六欲をこのように並べています。
七情、喜、怒、憂、思、悲、恐、驚。五行に直接に影響あるものは「怒、喜、思、悲、恐」になると説明しています。
六欲、眼、耳、鼻、舌、身、意。わかりやすく言えば、視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚と意念です。
七情六欲のいずれも行きすぎだと人間の体のバランスは当然、崩れます。
仏教の一部では、六欲を単に人間の六種類の性欲のような説明があったと伺っておりますが、これはかなり偏った考えだと個人的に感じております。
太極の本来の考え方では、いかにも無理した体の訓練をせずにして、人間の気持ちと欲望も最小限度に抑えて、もちろん、自分自身の考え方や感情もあまり表に出さずにして、黙々と練習をしていることが非常に大切にしています。
私はこういう練習をすれば強くなれるとか、私はいくらお金を払えば、この秘伝の技を一瞬にして自分のものになるとか…そして、私はいかに他の人にこの技を教えていかに払ったお金を取り戻すとか、中国武術の一部の流派では、自分が如何に師匠の技を習得して強くなって、如何にして自分の師匠に勝てるなどを企てている人間もいるらしいです。まして、いかなる秘伝も一日して身につくことがないはずですが、豊かな七情六欲を持つ武術の訓練は最終的に強さを手に入れることが不可能です。
武術の強さははっきり申しますと、七情六欲にほとんど影響されない性格が必要でしょう。もちろん、人間の健康も同様に考えられています。
健康も武術も人生も、落ち着く中でしっかりと黙々とやるべきことを続けていれば、その結果が自然とついてきますと、これが本来の道の教えです。
モチベーションによって、七情六欲の解釈が異なってくることが今日になって、私は非常に面白く感じております。世には色々な哲学があり、日本国の哲学の論文は世界のどことも違うと感じているのは私だけではないですが、国民に合った哲学を語ることは特に間違っていません。しかし、日本国民は色々な哲学を選ぶ権限があり、情報自由、言論自由の国においては、どの学問においても糸口が見出せない現実はもはや回避できない結果ですね。
私も今後、もっと冷静に間違った太極観点を批判する際に感情的になりすぎないように、自身の健康と武術に悪影響がないように修行すべきだと感じております。
人生は修行です。毎日のように色々と異なる考え方が我々を刺激しています。学校の教育は学業も大切ですが、人間力養成の手助けも大切に感じています。
大人は自分自身の感情をコントロールできると言われています。個人的には、感情をコントロールすることで喜、怒、憂、思、悲、恐、驚も自然と出てきます。ならば、我々は自分自身の感情を徐々に変えることができれば理想ですね。
仏教では、「喜、怒、憂、思、悲、恐、驚、眼、耳、鼻、舌、身、意」を完全に無くす修行が成功すれば、人間は成仏できると考えられていますが、これはおそらくすべての宗教の中でももっとも厳しい修行になります。
私はこのようないとたかき理想を最大の敬意を払っています。
封建社会では、手抜きしない太極拳は家の中でしか見せません。私は研究会の中で出来る限り、かつての家の中の太極拳を教えております。これは、家の中の太極拳の短縮版です。会員様募集しております。
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