第1771話 練拳不練功の誤解
- 2020/06/27
- 10:40

世の中の誤解は本当に多いですね。まあ、武術家の中では流石に文盲以下の人は少ないと思いますが、私も人生の中で数人のまったくの文盲武術家と会話をしたことがあります。もちろん、完璧に中国語を喋っていて、その方の武術に関する見解も完全に理解致しました。私も一応、中国語は母国語ですので、よほどの聞き取れない方言ではない限り、私は何とかなりますね。もちろん、武術のことを話していましたので、何も問題がありませんでした。ITの知識が本当に少ない私は逆に何故か、本当にITゼロの人間と話したくないです。今回もITのことでドジを踏みましたね。本当に不思議ですが、パソコンがまったく使えていなくて、メールを制作して送ることもできない人間は自分自身のメール暗証番号を懸念します。
これ、本当に近年の色々な武術家と名乗る人、巨匠と名乗る人の考え方に似ています。本当に似ていますね。まったく練功になっていないのに、凄い練功になったつもりですね。本日のテーマの「練拳不練功」ですが、中国国内の一部の文盲武術家は練拳は一つのこと、練功を一つのことだと考えていますね。要するに、何かの内勁にまったく到達できないなんじゃら拳法を練習して、もちろん、内勁には到達しませんが、仕方がなく他の練功方をなんとか取り入れて内勁をなんとか習得しようとします。もちろん、練拳が適当でまったく内勁に繋がらないものならば、いかなる気功や「站桩」を練習しても結果が出ません。まして、適当に作られている気功や動作だけの練功は同様に結果が出ません。中国では少し前、武術を懸命に練習している人間は義務教育をあまり重じていない流派があって、中国も実際に義務教育を大切にしていない時代があって、学校が教える学問よりも中国はまだ農業が優先だった時代に、農村の武術流派は完璧にできる喋る言葉によって伝えられることが多く、練拳も練功も感覚だけで伝わっていましたね。個人的にこれらの流派に脱帽しています。文字としての記録がまったく出来ない状態での流派の伝授ははっきり言って簡単ではありませんね。
日本人の多くが中国語に興味を持たれています。一部の日本人は中国語を母語として学習する方もいます。もちろん、私は中国語が日本語の母語だと信じていません。日本語の勉強でかなり骨折りしています。これは、今でも不完全な日本語をなんとか少しでも上達できるよう努めています。このブログを書くこともそうです。ブログでは実はあまり宣伝効果が高いとも思っていませんが、自分自身の実際に住んでいる国の言葉ですので、少しでも障害を少しでも取り除く作業をしていないと、永住資格をくださった国に申し訳が立たないでしょう。日本国に帰化するのならば、もっと日本語の読み書きを磨いていかなければなりません。国籍を取得するのならば、日本人らしさはどれほどに大切かと、私は実際に長い間に在日の外国人の生活を手伝うボランティア活動で体験しています。わかりやすく言えば、日本人らしくない方との交流は如何に大変かは皆様がなかなか想像もできないと思いますね。一部の行政書士の方が外国人のビザや会社の設立などを手伝っていますが、話しを伺うと空回りや無償では当たり前に思っている人が多いようですね。それでも、多くの知り合いの行政書士はできる限りの外国人を助ける仕事を続けています。頭下がりますね。
世の中のどのような仕事も意地をもって続けていかなければなりません。先代の二人は呉式太極拳が後の世に残していける為に、ほとんど休日がないままで頑張っていました。太極拳の練拳が内勁の習得として成り立つように、今日の日本で言う年中無休のように懸命に働いていました。馬岳粱先生は入院する日の朝にも弟子と推手練習をしましたね。結果的に馬先生はかなり残念な最後で生涯を閉じられたのですが、生涯をかけての一つの事業に専念して、学問としての研究精神は、今日の近代人の誰もその爪の垢を煎じて飲んで欲しいです。いい加減にゲームをやめましょう。
自身の健康と心身の強さの為に、共に頑張りましょう。
封建社会では、手抜きしない太極拳は家の中でしか見せません。私は研究会の中で出来る限り、かつての家の中の太極拳を教えております。これは、家の中の太極拳の短縮版です。
会員様募集しております。
伝統太極は本来、練習する際に音楽をかけるべきではありません。その理由は、耳が脳にかなり近く、刺激的な音や声は脳の絶対的な静粛を邪魔するからです。もちろん、太極の凄い達人ならば、脳が音楽の振動を感じても絶対的な静粛を守り、逆に体内の内勁で音楽による空気の振動と同調して動くことは可能です。
私はこれを目標にして修行致します。
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