第1799話 武林3
- 2020/07/25
- 11:17

昨日は、武林はもはや中国の物だけではないと述べていましたが、これは当然、
私あ実際に中国という国の武林は嫌になるほどに付き合ってきましたし、日本国では何とか32年間も生活しており、日本語も日本の常識も私なりに勉強し、多くの方々の背中を見ながら何とか試行錯誤して参りました。日本国の武術と本格的にお付き合いをしはじめたのは約7年前からですが、日本にも独特な武林が存在していることがわかりましたね。
私見ですが、日本国の民間の武術教室に通う者は本当に遊び人が多いですね。筋トレの青年が師匠に全力で攻める人も、あちらこちらと色々な教室を転々とする人も少なくありません。はい、日本は完全に自由な国ですので、いかなる教室を選んでも、いかなる師匠に異論を唱えても基本的に自由です。今まで、私が親友の教室の中ではとことん異論を唱えての学ぶ立場の人間が一年、二年で急に音信不通になるケースが非常に多いです。その方々のもう一つの大きな特徴は、教室の中で勝手に教え出すことです。師匠が懸命に教えている傍に、学ぶ立場の人間は色々と教え出すことは何度も経験していますね。私はこれに対する会則は何度も修正していますが、それでも、自分には関係ないという態度をとる人がいました。幸い、現在の研究会にはこのような人はいません。
元々、勝手に教え出す行動は中国の武林にも存在していますね。同門の教室を訪ねると同門の学生が勝手に私に色々と教えてきますね。自分の師匠が中国の第一人者だとか、巨匠だとかで自分もけっこうできるのだとか、今回は武林の話しですので、具体的にこのような人達はどうしてこのような行動に出てくることは分析致しませんが、皆様なりに考えても問題はないと思います。
そして、教える側も責任がありますね。私、来日して既に四半世紀を超えましたが、それでも日本人の方々に太極を伝えることは難しく感じていますね。言語が通じても、ニュアンスが通じなければ、太極の感覚をしっかりと学ぶ者に伝えることは簡単であありません。私では、馬岳梁先生ほどの実力がなくて、例えば、一人の学ぶ人間が毎日のように学ぶ気持ちはまったくなく、慢架の練習をしても平気で誰よりも一節以上に終了させて、動作の間違いを説明してもまったく記録せずに記憶もしません。いつになっても同じところが間違っていて、それでも聴く耳がなくて、推手練習の際では太極の軽さに関してもまったく理解せずにして、常に全力で突っ込んでくるのならば、私もそうですが、教える立場の誰も嫌になりますね。
かと言って、この人達は本気で全力をかけての格闘技のような推手教室や練習会には参加しないことが多いです。
ようは、ご都合主義と自己顕示の塊です。多くで全力でぶつかる方に対しては私はいつも友好団体の競技推手をお勧めしておりますが、その人達は何故か、あちらは力だけで勝負するから面白くないと、私のところはできる限り体を変えることが中心にも関わらず、一人だけがまったく違うことをやっています。もちろん、私からすると全力でぶつかることしかしない人間こそ、力で勝負していますが、自分自身が力で勝負しているにも関わらず、人が力で勝負することを批判している人間はもちろん、日本だけではありません。
今日の世界の色々な国や地域では、武術ははっきりとした免許がないです。ですので、誰でも普通に教えることができます。私は教室を開く前に一度だけ日本のとある教室を見学いたしましたが、太極拳を教えている人間が武術がまったくわからない私の妻とがっぷりになってしまい、何故か随分といい勝負をしましたね。
武術を教えることは一種の信頼関係になります。私はあの位のことを教えていますが、あなたはこの練習に賛同しますかと伺って、教室に参加してください。
一人の異なる分野の巨匠が私にこう言いました。テーブルを出して、教室の前に置いて、やりたい人はお金を出して、名前を書いて、後に並びなさいと、私はこのような巨匠も軽蔑します。
私は今後、いかなる武林においても、誠意で皆様と接して参りますが、もちろん、まったく学ぶ気持ちがない人は今後、退会していただくようにしたいです。理由は、周りに真面目に練習している会員に申し訳がないからです。
封建社会では、手抜きしない太極拳は家の中でしか見せません。私は研究会の中で出来る限り、かつての家の中の太極拳を教えております。これは、家の中の太極拳の短縮版です。
会員様募集しております。
伝統太極は本来、練習する際に音楽をかけるべきではありません。その理由は、耳が脳にかなり近く、刺激的な音や声は脳の絶対的な静粛を邪魔するからです。もちろん、太極の凄い達人ならば、脳が音楽の振動を感じても絶対的な静粛を守り、逆に体内の内勁で音楽による空気の振動と同調して動くことは可能です。
私はこれを目標にして修行致します。
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