第1803話 武林7
- 2020/07/29
- 11:25

当然、このように書き続けるとブログは永遠に止まらないほどに、我々の世界の色々な形の武林は毎日のように何かの事件が起きて来ますね。どうしても武林を綴るのであれば、もはや長編小説ではないと無理ですね。本当に暇で私はもう仕事をする必要がなく、食って行ける余裕もあって、何もしなくてよいならば、試しに小説を書いてみる気持ちにはなりますが、私は実際に来日の頃に日本で定年退職して、家のローンも終えて、年金でなんとか暮らせるようになれば、無料で呉式太極拳を教える人生の企画がありましたね。まあ、若い人間っていつも理想と現実の差についていけないことが多く、今になって、私の一流企業で部長クラスで定年する夢はいかに幼稚だったのかがわかります。若い頃にどの企業は将来的に身売りにかけられるのか、どの企業は潰れるのかは調査していなかったし、調査する方法もほとんどわからなかったのですので、日本に来て最大の失敗と言ったら、社会学の勉強が足りないことです。
愚痴は程々にして、私は今回、色々な国に散在する武林という暗黙の組織を語って参りました。私は来日して3日の日に日本で電車の改札に間違って入ったことで初めて3700円の罰金が課せられましたが、来日して1週間の夜のアルバイトの帰りに実は日本国の武林の存在を感じましたね。非常に残念なことにあの頃に日本語はほぼゼロだったことです。
山手線でバイト先の中国人同僚と並んで座っていたところ、同僚の隣は空いていて、次の駅で沢山の人が乗って来ました。一人の着物を来ている武道家風の人間が同僚のすぐ隣りに座り、膝が同僚の太腿にいかにも直接のしかかっている状態が続いた為に同僚はその人の載っている足を移動させました。普通はここで色々と口論になりますが、同様も日本語があまり得意ではない為に結果的に掴み合いになったわけですね。同じ車両には武道家風の仲間が数人も乗っていて、同僚は一瞬にして数人に捕まったまま車両の外に引っ張って行かされました。私も外に行って、日本語が通じないにもかかわらず懸命に間に入っていました。同僚は「十大形」の伝人だと聞いたことがあります。本当に喧嘩になったらどうなるのか怖かったですね。
幸い、駅では中国人留学生の数人が間に入り、もう来日して長いようで懸命に通訳してくれて、武道家風の人はそれでも通訳を通して同僚に謝れと強要して来ましたね。私は覚えていた唯一の言葉の「警察」を口にすると、武道家風の人のその仲間は急に去って行きましたね。もちろん、この人が日本の武道家かどうかは証拠がありません。殴り合いになりそうな時はきれいに日本武道のような構えをしていましたね。日本武道の構えは中国で記録映画で拝見したことがあります。もちろん、今日の私ならば、色々と理論しましたし、そして、相手が日本武道家それとも殺陣かは伺えばすぐにわかる話しです。
多分、日本武道に人にしても、普段は普通の振る舞いで決してこのような行動には出ないと思いますが、当時の事件の際では相手はかなりお酒のにおいがしていたので、おそらく、酔っているでしょうね。
2年前に池袋駅の地下で喧嘩を止めたことがあり、今度は私ははっきりと理論をしましたね。やはり、空手の手付きをしていた人は酩酊していました。お酒は本当に飲むものであって、呑まれるべきものではないと痛感しました。これが今日になって、私は大好きなお酒を基本的に切っていることのきっかけでもあります。今後はたまにはいっぱいしようと考えていますが、横に誰もいない時とか、または、この量ならば自分でコントロールできる前提でお酒をいただくことは本当に大切に思います。
急に別の話題で申し訳ないですが、お酒をやめて少し痩せられると勘違いしましたが、更に太った気がします。なんとかしなければいけませんね。
ところで武道や武術に携わる者は本当に自身の武術などを人々に披露することがあるかというと、私は必要がないと思っています。もちろん、今日になって私は太極拳を教えることを糧にしてるので、色々と宣伝をするのも仕方がないですが、私は来日して24年間の間にほぼ毎日のように太極を練習していても、私が太極を練習している方がおそらく片手で数え切れますね。そもそも、武術家武道は誰のために練習しているのでしょうかと、本当にちょっとした場面で我々は武術を練習していることを人様に見せびらかす必要があるかどうかですね。ようは、何のために武術を練習するかによって、練習する人間の社会への出方も異なってきます。
日本で十人十色との表現があって、この言葉はどうしても好きないなれない人が多いようです。その理由は何で皆がバラバラではないといけないのかとのことにようですね。マニュアル社会では、誰で一つのマニュアルのもとで自分自身を殺してでもまずは仕事が何とかなることが一番大切になります。いわば、勝ち組の「克己復礼」的な考え方ですね。しかし、世の中は全員勝ち組になることは有り得ないので、いかに十人十色を批判しても現実社会では色々な人間性と人間力のぶつかり合いが今日の日本社会を構築している気がしてやみません。
はい、会社の中ではしっかしとマニュアルを守って懸命にお仕事をしましたと、居酒屋で一気に気持ちが緩むと何を喋っていたのか翌日はわからなくなって、たまたま、ほとんど飲まない奴ではしっかりとでたらめな発言を全部聴いてしまうこともあり、いっぱいの勢いでどこかで人さまと衝突したことももしかして翌日は既に忘れたとか、親友は昔、毎晩のように倒れるまでお酒を飲んでいまして、自宅の最寄り駅を降りた途端にほぼ立てない状況だったので、隣りの車線に止まっている中央本線に乗車してここまま寝込んでしまい、気がついたら石和温泉でしたね。鞄が無くなったので、警察の電話を借りて、奥様に迎えに来てもらう破面になりました。これが勝ち組の結果であれば、私はもはや勝ち組にはなりたくないですね。
当然、日本には色々な異なる考え方を持つ武道家がいます。そして、偉い学者はどんなに十人十色がお嫌いで批判しても、それは実在しているものです。
そして、今日の日本や中国の武林は見えないところで色々なことが起きるのもほんというに仕方がないですね。世の中には勝ち組と負け組とかがありますが、武術や武道の世界では自分自身の体の現状がすべてですので、勝ち組であっても、負け組であっても、武術や武道の習得にはさほどの影響がないはずです。わかりやすく言えば、本当に武術が好きならば、どんなに貧しくても練習しますね。
太極は道、少なくとも私の流派ではこう考えています。道は日本では負け組のイメージになりますね。私は長い間に太極教室を立ち上げることで躊躇したもう一つの大きな理由はこれです。道は負け組となると、私は太極教室の宣伝であまり道を宣伝すると色々と社会的に叩かれるのではないかと感じていました。
しかし、非常に皮肉なことで私は今日も道の言葉を口にしていますね。
結論、私が感じた日本国の武林の乱れは、「克己復礼」と現実生活の一種のギャップのようなものです。学ぶ人間はより簡単な太極拳がよいとか、当流派の先代も時代に合わせて30式を作ったとか、他にも16式とか8式とか、立っているだけの練功ほうをいつかは1式だと命名されたりして、教える人間は適当に教えていけば楽だし、どうせ、世の中の武術教室ではどこも遊び半分で練習していますね。私のようにあまりにも一つの流派の沢山の内容を教えている教室はあまり人気がないです。もはや、月曜は太極拳、火曜は少林、水曜は長拳、木曜は南拳、凄い教室では、一つの教室で同時に複数の武術を練習している場合もありますね。私は特にこれに驚いてはいません。「克己復礼」的なマニュアルで動く会社が多いので、どうしてもそのマニュアルの合理性がなければ、人々は色々と余暇や趣味の時間の中で荒れてしまいます。
日本国の武林は本当に難しいです。これは独特な社会構造の産物ですね。
少しでも、正しい呉式太極拳を日本に残すように残りの人生を過ごしたいと思います。
封建社会では、手抜きしない太極拳は家の中でしか見せません。私は研究会の中で出来る限り、かつての家の中の太極拳を教えております。これは、家の中の太極拳の短縮版です。
会員様募集しております。
伝統太極は本来、練習する際に音楽をかけるべきではありません。その理由は、耳が脳にかなり近く、刺激的な音や声は脳の絶対的な静粛を邪魔するからです。もちろん、太極の凄い達人ならば、脳が音楽の振動を感じても絶対的な静粛を守り、逆に体内の内勁で音楽による空気の振動と同調して動くことは可能です。
私はこれを目標にして修行致します。
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