第1874話 粘得起、黏得定
- 2020/10/29
- 12:07

本日は呉鑑泉先生の普段の教学時の言葉になります。当然、北京の隣町である大興出身の呉鑑泉先生の言葉は今日の共通語とも若干イントネーションが異なることが知られ、今でも上海出身の呉鑑泉の子孫が中々理解できない問題が起きているようです。
幸い、幼い頃の私は色々としつこかったようで何でも自分が理解するまで色々と質問攻めをしていたそうです。と言っても私は馬岳梁先生の現在に残されている子孫のどなたよりもかなりの量の記録を持っており、今になって呉鑑泉先生が残してくれた資料を研究する必要もありませんが、まあ、先代の二人には私は相当しつこかったと見られているようですね。しかも、幼い私は当時、自分の先代の二人に対する質問攻めは当たり前のような行動だと理解しており、ここは子供と大人の違いで、例えば、今日の私であれば、師匠は疲れているかどうかとか、師匠は著作の文書で忙しいかどうか…今は師匠のプライバシーの時間では…、どうであれ、膨大な資料を得た私は後に先代の二人に先立たれた後にはかなり役立つものと変わり、今日になってこれが太極や中国の色々な伝統文化の伝承の難しさはこの私が誰よりも痛感しています。
粘黏は本来、十三勢の中ではそんなに難しい内勁とは言えませんが、近代人としてはどうしても理解しにくいポイントは手先だけの技かすべての虚実が生きている内勁の動きかの区別です。そもそも、十三勢を13個の動作として解釈していたら、太極は13個の動作だけで片付けられてしまいますね。
粘得起、いわば手合いの中で相手を軽く触っただけで相手が真っ直ぐか斜めに浮き上がってくることです。当然、仕組みとしてはまずは相手に上方または斜め上に出てくる餌食を撒かなければなりません。これは当然、一瞬の自身の欠点を相手に見せなければなりません。しかも、人はそれぞれ異なるわけですので、この人にはどれほどの欠点を見せれば動いてくることも人によってはまったく異なります。
粘は、相手が中々出てこなくて、硬く守るに徹している際によく使います。
黏得定、黏は通常、一種の相手の攻撃の方向を変えると同時に相手のより遠いところに到達させる勁です。もちろん、一つの方向ではありません。黏勁のうまい者と推手をすれば、常に色々な方向から返されている状態が続くはずです。
黏は、相手が何とか出られて勝負を挑んできた際によく使います。
一瞬にして、このような判断は意と言います。当然、これは通常の脳の使い方ではありません。
太極のような動く禅の境地と、体全体が虚と実のバランスが取れている内面の動きが得られていない限り、十三勢は到底無理ですね。
別の角度から人間を見ると、例えば、世には禅を練習していると言っておきながらも人様の見解や思想に直ぐに突っ掛かってくるならば、この人の禅は本当に疑問になりますね。そして、真の太極の達人はどんな挑発にも時代の動乱にも動じないはずです。この点に関しては自分自身の修行もなったく足りていないと感じております。
よって、太極拳教室の名前は研究会にしております。共に成長していく意味合いが込めております。もちろん、私は段や級もまったく設けていません。これは組織の中で上下関係を作りたくないからです。明日はもう少し、組織の平等について語りたいです。
ご期待ください。
会員様募集しております。
伝統太極は本来、練習する際に音楽をかけるべきではありません。その理由は、耳が脳にかなり近く、刺激的な音や声は脳の絶対的な静粛を邪魔するからです。もちろん、太極の凄い達人ならば、脳が音楽の振動を感じても絶対的な静粛を守り、逆に体内の内勁で音楽による空気の振動と同調して動くことは可能です。
私はこれを目標にして修行致します。
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