第1913話 ゼロ距離の打と化
- 2020/12/07
- 14:43

これは太極の理想中の理想とも言われています。もちろん、習得できる何度もかなり高いですね。理屈から言えば、人体のすべての骨が単独で動けられて、かつ一本の骨が動く際に全身のすべての虚実が来ていて、しかもほぼ均等の虚実で一本の骨を動かせば、どんなに強い打撃が来てもそれを自分の体に当たらせて、その衝撃を一瞬にして吸収し、ほぼ同時に相手に放出してしまう内勁の使い方です。まあ、今は時の風雲児である格闘家はきっとまた私が大嘘野郎だとののしるのでしょうね。本当に気をつけましょう。言い過ぎるともしかして決闘の申し込みが来るかもせれません。
しかし、当時の馬岳梁は非常に謙遜な人間で自分はまだ全身のすべての骨が全部単独で動くことはできないと、それは最後の数年間も言い続けていましたが、私は師匠の体の色々な部位を普通に攻撃しても、ほぼ時間差が全くない状態で化勁と打勁が行われていました、当然、当時の私はそんなに長い年数練習していなくても一応、動く手はかなり軽くなりました。もちろん、私が申す手が軽いということはただ手付きだけが軽いのではなく、人間の多くの虚実が一定レベルまでの充実ができれば、人にかなり軽く触っていても、相手がまったく動けなくなったり浮いたり、または、軽く触っているにも関わらず何故かかなり重い物がのしかかっている感覚になることもあります。しかし、師匠曰く、自分が生涯練習しても創始者呉鑑泉のレベルに到達していないと、これは師匠が最後の最後までこの言い方を変えていませんでした。
私は創始者呉鑑泉に面識は有り得ないので、いつも二人の師匠より色々と伺っていただけですが、当時の社会で聖手と言われる呉鑑泉が実際に手を合わせた際にどのような感覚になるのかが本当に不思議な感覚になりますね。馬岳梁の強さは私は十分に知っていますが、先代の二人よりもさらに上にいく実力はどのようなものかは想像もつかないです。
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考えてみると、日本でも今は時の人となった格闘家の人間は私とは20歳も離れていません。確かに、中国武術はこのたったの数十年で本当に使えなくなったことは本当に悲しいです。もちろん、中国という国が平和になったことがあって、使える武術の練習はきつくて誰も好まなくなったことは私にははっきりと感じました。
私が故郷である上海に戻った頃は丁度、上海も徐々に改革解放が進み、人々にとってはこれからの新しい生活への憧れも少しずつ膨れていたはずです。なんとか個人経営で儲けたお金で南米の小さな国の国籍を買った人もいれば、何があっても世界一の米国の移住などを計画する者もいました。日本はあまり人気がありません。恩赦がないからです。米国は超過滞在でもどこかで恩赦されるという噂が一部の当時の富裕層の上海人の中で伝わっていました。当時の上海人青年の中では、米国に行って、独身の年配者のご婦人様と結婚することがいかに魅力的であるとの考え方も少しの間には流行っていましたね。海外移住のためには何でもOKという感じではないかと考えると私は今でも少々哀愁な気持ちが漂います。
話しが戻りますが、私の先代の家がある町でも多くの青年が中国武術を練習していました。制定武術を練習する人よりも伝統武術を練習する人が多かったです。豊かな生活への憧れや何かの夢が持てることがなければ、青年の生活は当然のように荒れてしまいます。当時の都会では、まま勉強ができる子供も何故か殴り合い事件に巻き込まれたりして、別に何かの政治目的ではなく、国家の動乱期の延長戦でもなさそうですが、ただの青年対青年の意地の張り合いだけで決闘事件もかなり多かったです。それこそ、色々な種類の中国武術が混ざり、自家製の凶器まで出せば、処刑になることもしばしばありました。
しかし、この状態は1984年あたりで急に変わり、街には個人経営の若者のレストランや洋服のお店が一気に増えましたね。改革開放によって人々の給料も増え、しっかり働く人間は収入も一気に増えた時代は人々の生活を大きく変えていましたね。
もちろん、公園では武術教室も一気に増えました。映画や香港連ドラのおかげだと思います。あの頃は武術教室の道場破りもかなりひどいもんでした。
当時、町で元々は武術を練習していることがまったく知らないご年配の人もいきなり近くの公園で太極拳教室を開きました。遠くから動作を拝見していると素人同然ですが、これが人様の小遣いだと思うとそーとして差し上げることは大切だと思いました。あの時代でたとえ私が色々な偽物武術教室を潰していくとすれば、私はどこかで刺された気がしますね。
今になって、武術は確かに弱くなりました。色々な秘伝が失ったから、人々は武術の修行から遠ざかってきたからです。これは、私だけがこう思っているわけではありません。
しかし、武術は国家免許制度ではない限り、商売自由の国ではない限り、いかなるレベルの武術を提供しても人々の自由です。
もちろん、格闘家の方の発言も自由です。私は総合格闘技の全体的な格闘実力が伝統中国武術よりも強いと感じています。私は日本国の総合格闘技の試合を見にいたことがありますね。確かに強いですよ。少なくとも平均実力は現在の伝統中国武術よりははるかに強いです。
しかし、伝統中国武術がいくら弱くなったにしても、強い総合格闘家は弱いものをどんどん潰せば、その強い格闘家が人気が出たこと自体が世界の歪みだと感じました。普通に考えるとどんどん強いものへ挑戦するのが本物の格闘家ではないでしょうか。
私が練習している呉式太極拳は一応強い武術です。もちろん、強い武術であればあるほどに習得は当然難しいです。「ゼロ距離の打と化」は私の造語ですが、私は45年練習してもまだ「ゼロ距離の打と化」を完全に習得していません。
太極は、健康目的にしても武術目的にしても練習する基本内容は同じです。私の研究会の会員さんは10年や20年の練習をしても今日の世界の格闘家には勝てません。でも、いつかは勝てると希望を捨てない気持ちで毎日練習していることは私は感動しています。年齢からすれば、残されている人生でもう総合格闘家には勝ち目がない方もいます。それでも、私達のご年配の会員さんは毎日のように希望を捨てないで練習しています。私の会員さんは毎日複数回の太極慢架練習を続けている方もいます。健康か武術かは、太極の根本からするとほとんど関係ないことですね。
太極は格闘技でもなく、ただの健康法でもありません。太極は私達の体の全体を変えていく訓練です。
よろしければ、一緒に練習しましょう。

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