第1915話 公説公有理
- 2020/12/09
- 12:43

ブログでは定期的に中国語の四字熟語や方言の言い回しを紹介させていただいていますが、今まではほとんど武術に関するものが多いです。それもそうですね。私は長い間に一応太極を武術として練習してきました。
今回は、上海や江蘇省、浙江省などの地域で使われている言い回しです。「公説公有理、婆説婆有理」、つまり、昔では家の中ではお爺ちゃんとお婆ちゃんが一番の権力者で、偉い二人が喧嘩すると子供や孫はそれぞれの言い分を聞くとうんざりする様子を表しています。後に一つの分野ではそれぞれの意見がまったく食い違うことを指しますが、今日の太極も中国武術もまさにこのような状態になりつつあります。だって、武術を3ヶ月ほどに学んだ人も、ほとんど学んでいない人も、武術家が一目でわかる基本が何もできていない人も武術教室を開いていますので、全体的に武術の世界ではいかなる見解や考え方が出ても私は驚きません。
ただし、社会福祉専門家の私からして、明らかに精神的に問題を抱えている方が武侠小説や武術の著名流派のページをコピペして、しかも、適当に武術を教えていることは論外というか、その方の実際の健康状態に非常に心配しますね。もはや、公や婆の理屈には当て嵌らないです。
元々、公と婆は歳をとって、人生経験もあって、家では尊敬される身になっている存在ですが、近代の中国語専門家の中では、歳をとれば皆頑固者になり、自分自身の意見を無理してでも通すことをこの公と婆の言い回しに隠れているとの見解も込まれてるとの見解が出されています。まあ、歳をとってきた私も最近は頑固になったようが気がして、もしかして理屈っぽくなったのではないかと最近はかなり自戒しております。幸い、研究会という方式で教えていますので、教室の中で私の見解が理解できない方も、自分の見解(ほとんどは他所の太極拳の見解)も議論したい方には、話し合いする時間は与えています。もちろん、私の教室では基本的に私達の見解に沿って練習していただくしかありません。これは、年寄り(まだ、そんなに年をとっていないが)の頑固よりも太極の基本は妥協すべきものではないからです。
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世には競技推手に関して賛否両論のようですが、私は基本的に賛成しています。私はもう少し自由時間があれば、もう少し若ければきっと、参加していました。世界の色々な地域で既に競技推手が展開されています。上海では1980年代にプロの推手チームがありました。各太極拳流派の先生がチームに訪れては色々と指導を行っていましたね。当時の上海市の推手チームのほぼ全員が太極拳を練習している者でしたが、では、実際にその方々がやっていることは太極の基本に沿っているかと言われれば、これは太極勁の習得がどれほどに難しいことを経験している私ははっきりと証言できますね。実際のぶつかりの中で、特に呉式太極拳の家庭の中で勉強してきたすべては軽くて、全身の虚実で行う発と化の状態では、いきなりぶつかりを受けると中々勝てないと思います。理由は相手実際に力があることと、自分達はまだ太極拳の一番上のものを身についていないからですね。
若い頃の私は競技推手の上海チームの複数の選手とお付き合いがありました。同門もいれは、他派太極門弟子もいました。当然、ぶつかって、体の大きい人には負けますね。私は実際に師匠の子供の一部ともぶつかっていましたね。盘手や未熟な太極勁では解決できなければ、力で解決するしかありません。若いですもの。時々、双方が同時に床に叩きつけられたりして、師匠馬岳梁は一人で顔をくしゃくしゃにして笑っていましたね。これ、競技推手ですよ。
競技推手は、実際に格闘の一部を行なっていると私が思います。特に近代社会では青に青痣のままでは翌日の出勤はどう考えてもやばいでしょう。比較的に足が動いたら負けとの勝負は人気があるはずです。おすすめいたしますね。色々と偉いことを言ったりしているのならば、実際に勝負してみて、どのくらいの実力かを試してみればよいと思います。
もちろん、世の中で色々と競技推手や伝統中国武術、または太極拳に対する見解は分かれます。先日の狂人格闘家からすると中国伝統武術の300年の歴史はすべて嘘、すべて詐欺であると、これはもう数年前に出された見解であります。この見解を出された途端に一部の武術と関係ない熱血青年は狂人のこう聞いたことがありますが、あなたは中国人ですかと…
ところで、「頂牛」という言葉は馬岳梁が最初に使った言葉です。太極門の他の流派では太極勁への習得が遅れ、実際に力で勝負する手があったのですが、それをやってはいけないと助言をしたための言葉でした。今になって、呉式太極拳の一部の授権点教室さえ力でぶつかっての勝負をしています。こうなれば、伝統太極拳も実際のところでは競技推手とほとん変わらないというか、実際に確認したところ、競技の上級の方はぶつかった一瞬に受けをしてから相手を崩していることは確認しています。これはもう「頂牛」よりも、「太極技法」よりも遥かに上級であって、太極勁の入り口になっている証拠です。もちろん、これ以上の太極勁を習得するには太極拳の練習をしなければなりません。もちろん、間違っている太極拳を練習しても意味がありません。
当家を含め、今日の太極門の推手のほとんどは、「頂牛」か「太極技法」を練習しています。こう来たらこう、どうすればもっとパワーが出るのかの練習がほとんどです。まだ、競技推手のよい先生と出会えば、太極勁に少し近いものを勉強することができると痛感しています。
当研究会では基本的に競技推手は研究していません。原因は老若男女の集まりだからです。これは私の希望であって、それは徐々に実現しております。例えば、私の研究会に筋肉隆々の若者、月のある女性青年だけが集まっていれば、私ももしかして競技推手を研究したかもしれません。青年ですので、個人の名義で競技推手の大会に出るのも当然、自由にしますね。
現在の教室は基本的にもっと人間の根本である免疫づくりや内勁の練習、または太極の本質的な体の内面状態の練習がメインです。無理のない体力づくりを大切に練習しています。
よろしければ、一緒に練習しましょう。

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