第1920話 喂勁と走勁の必要性
- 2020/12/14
- 15:34

3月に父親が亡くなり、いつものwe chatの楽しい会話も急に無くなりました。日本人の妻は何も理解できていない部分があり、we chatの着信音がなると最初は怖くなり、これはもしかしてあの世からの電話ではないかと心配していました。まあ、私はあまり他の人とWeChatで会話していないです。今になっては、拝師師父の馬江麟先生とチャットすることが一種の楽しみになっています。もちろん、出来る時間は限られています。
今になって、もっと父親とチャットしておいた方がよいと思うようになりました。父は亡くなる2時間ほど前にまだ親友にメールを打っていたそうです。あの人は自分もこんなに急に世を去ると感じていなかったでしょう。そして、一年前の昨日は親友の作曲家の酒井多賀志が亡くなられました。この世には完全な人間は一人もいないはずですが、せめて、私は酒井さんと腹を割って色々と会話ができたことを感謝しています。世の音楽家とか詩人、または芸能人などは一般社会での下積みがあまりないとはっきり言って、庶民の生活はほとんどわからないです。私は中国の動乱期の頃の田舎町で高校卒業まで生活していたこともあって、日本に来ても当然、体力労働などの仕事は長かったですし、せっかく企業に入ったのですが、数年で完全倒産しました。同業会社への移転も可能でしたが、私は好き嫌いが激しく、スカウトされた同業会社への入社はありませんでした。私は若い頃に数年間も東京の下町でアルコール中毒者のボランティア活動をした関係で、自分は日本の庶民の生活がよくわかっていると思いますね。
人生で大学の時の留学生経済身元保証人の方は私を一度、銀座の高級倶楽部へ招待してくれました。他には日本の高級料亭が一度だけ招待されました。しかし、この一介の武夫とも一介の俗人とも言うべきの人間はもはや庶民の居酒屋で労働者のお酒をゆっくりと飲みながら、マスターの独り言でも耳を傾けて適当に聴いていることが本当に気が楽だと感じています。庶民はお酒一杯がお腹に入ると途端に親切になります。少なくとも東京や関東では酔いが覚めると誰もいつものよそよそしさに戻ってしまうのですね。
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ところで、喂勁と走勁は実は、庶民的な考えからくるものです。つまり、教える人間はまったくプライドがなく、いくら弟子や学生に責められても押し出されてもよいと、更に密度が高い人間に対しては自身の虚実の状態を少しずつ連動していくという練習方です。喂勁(weijin)と 走勁(zoujin)の違いはこうです。
喂勁は教える人が自分の欠点を見せて相手に攻めてもらうか、自身の虚実で学ぶ人間に連動するかになります。走勁は更に、学ぶ人を常に虚実で攻め続けて、攻めきるそうで攻めきらない練習方です。当然、前者は少しでも体が太極拳慢架のように均等に動かせばよいです。近頃に入会した若者は本当に熱心に練習しており、理解力も抜群で練習して2ヶ月ほどですが、もう喂勁出来る状態にかなり近いです。この状態からすると年内では試すことになりますね。ちなみに、私が師匠が喂勁してくれたのは慢架を練習して5年経ったところでした。今回、多くの会員さんが退会した後に入ってくださった若者は本当に太極の為にこの世に来た特別な方だと感じました。もちろん、現段階で喂勁と言っても、私が体の欠点を作って、攻めていただくことになります。更なる高い段階の私自身の虚実で連動すれば、現段階では虚実も内勁もほぼできていない段階だと、自分が虚実を見せれば、学ぶものが直ちに重心を失うようになります。このように師匠が強くて、触っただけで弟子が転んだとすると、世の多くの道場や教室は常識的なものになりますが、道の中ではもはや師匠は弟子にぎりぎりの状態または自らよくない状態を作って、弟子に攻めていただくことが本当の進歩につながります。わかりやすく言えば、最初は手の出し方の喂勁、どこで手を出すべきか、そのように手を出す(出手)べきかの勉強になります。次に、上級者が自分の内勁と虚実でなんとか断点の多い体に連動をかけて、なんとか長い時間に上級者に少しでも似た体の動きをさせることです。そうすれば、学ぶ方は徐々に内勁の動きもできるようになります。
走勁は、私も実はあまり上手ではありません。理由は、私の内勁がまだそんなに豊かではないことと、私の全身の虚実はまだバランスのよくないところが存在しているからです。でも、一部の密度がかなり上がって来た弟子が学生に対しては懸命にこの練習を行なっています。何故、懸命かというと、私も走勁を行う際には相当の集中がないと行けません。集中が切れるとかけた太極勁が学ぶ人間がぎりぎりのところで自分で虚実を潰してしまい、倒れかかった一瞬を、教える人間の化勁でなんとかぎりぎりこの人を倒さずにして繋いでもらう練習が完全に近い走勁になります。わかりやすく言えば、私のちょっとした集中のミスで走勁が中断してしまうことになります。その場合は基本的に学ぶ人間には責任がなく、すべての責任は教える人間にあります。
現在の研究会で走勁練習でなんとか耐えられる方は三人ほどですが、もっと増えるでしょう。敏感度と密度が上がった方は基本的に走勁を行なっています。走勁を練習すると何故か学ぶ方は急に息が上がってくることがほとんどです。しかし、考えてみると私の盘手は上海鑑泉社の授権点教室の他の方々よりも若干遅く、通常ならば息が上がることはありえないですが…
太極を教える人間は、庶民的な考え方が必要です。銀座の高級倶楽部のような輝かしい人生は似合わないと思います。
いつも、弟子を飛ばしていたら、師匠は確かに格好いいですよ。もしかして、世の多くの方に認められると思います。しかし、喂勁と走勁をしない限り、弟子も師匠も進歩しません。
これが中国古代の道です。昨今のなんじゃら狂人格闘家なんかは理解できないと思います。
これこそ武徳のもう一つの多くの方に知られていない意味です。
これが私が描く教室の理想図です。私と会員の皆様の努力によって、徐々にこれに近づいてきて来ます。よろしければ、一緒に練習しましょう。

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