第1935話 挨拶と「叫人」
- 2020/12/29
- 16:16

個人的な話しで誠に恐縮ですが、私は今年、ダブル喪中で年末年始の挨拶を省略させていただきたいです。
3月に上海の父親が他界、10月には義母も亡くなりました。
コロナに肉親が相次ぎ離れていくことは本当にめでたい気持ちになりません。
これはもはや日本人も世界のどの国の人も同様です。
挨拶と言う日本語の言葉ですが、それは中国にいた頃に聞いたことのある言葉の一つであり、挨拶は日本人の代表的な表現であると中国の時に私が出会った唯一の日本語の先生がこう言っていましたね。
日本はとにかく、挨拶かあ始まり、挨拶で一日を終えるわけですので、日本に行ったら日本語ができなくてもとりあえず毎日の挨拶だけをしっかりしていれば、それでなんとかなると言われました。
私は日本語の挨拶も来日してから中国レストランの先輩の皆より教わりました。考えてみる日本語の挨拶はまだ、中国の地方や当時の大都会である上海の異邦人が密集して住む地域の挨拶と比べれば、本当に簡単でたとえ外国語であっても本当に楽でしたね。私は学校やバイト先で本当に挨拶がしっかりできている人間と評判でした。
これは、私の両方の祖父母は当時、都会人である上海人からすると異邦人の人々と一緒に暮らしていたおかげでもあります。
上海が大都会になってからは、町の知り合いにしてもお会いすれば、簡単に会釈するか、簡単に「おはよう」位で終わりますが、地方の人は流石にそれだけではいけません。私の母は若い頃に地方で暮らすことになったので、地方の挨拶にかかり慣れていましたね。当時、上海でも上海近辺や他の地方で流行っている挨拶が何故か流行っていましたね。いかにも、当時から色々な地方の方が大都会である上海に憧れて大都会に集まるようになっていたことがわかります。
世界の大都会である上海に憧れるのは今日も変わっていません。この33年も東京に住む私も可能ならば上海に住みたい気持ちがあります。特に今日の上海はありとあらゆる娯楽があり、私は自身の体を壊すような娯楽は嫌いですが、他の色々な東洋のパリと言われる虹色の都会は私はおそらくいつの時代においても憧れ続けると思います。もちろん、上海と言う町は今はもっと沢山の地方の方が暮らしていますが、時代の変遷と人間の進化とも退化とも言うべきだろうが、今日の大都会はあまり互いに熱く挨拶しなくなったことがこの私も少々違和感を持っています。
昔、大都会上海では、「叫人」と言う言葉があります。父母と同じくらいの人は叔父様とか叔母様、祖父母と同じくらいならば、お爺さま、お婆さま…もちろん、お兄さまとお姉さまもあります。はっきり言って、言葉が何とか出来るようになったことは本当に大変でした。母と一緒に街角に出かける常に「叫人」しなさいと言われました。
説明が遅れたのですが、上海語の「叫」という言葉は人を呼ぶ、または人様の敬称を呼ぶことになります。つまり、「叔父様!」、向こうは「はい、いい子ね」と、これが日本語の「おはようございます」とあまり変わらないですね。
年末から私は妻の実家に移転をしているところですが、妻の実家は大昔から変わらない人達が周りに住んでいることもあって、東京の町では多分珍しいくらいに挨拶がしっかりしているくらいでしょう。立ち止まってお喋りをする仲もいます。
私の基本的な感覚ですが、社会の資本主義が進むと人々は自然と違いの疎外感が進むことになります。私の若い頃でも一応、当時の上海の上流階級だったので、私はどちらかと言うと東京のどっ真ん中のよそよそしくしている感覚が楽しく感じます。これこそ、都会人の美徳ではないかとも思っています。たとえ人込みの中でも自分自身の自由があることは本当に大切だと思いますね。電車の中でいきなり知らない人から声がかかると困るのではないでしょうか。
話しは少しずれてしまいますが、若い頃に写真はまだフィルム時代だった頃に、私は一応プロのメインカメラ2台所持していましたが、個人的な変な癖で自分自身の撮影を楽しむ時間は、私はいつもプロのメインカメラ1台と写真の初心者も使いたくないかなり古くて、今すぐでも壊れそうなアマチュアカメラ1台の組み合わせで町に出かけるのです。もちろん、写真撮影を存分に楽しみます。こう言う時に何故か色々な方に声がかかりますね。一番面白い声の掛け方はこうです。「あなたはプロですか、それとも…」、はいはい、その次の言葉が出ないのは日本人の曖昧と言う美徳です。まあ、私の答えはいつも決まっています。「私はこの世に属していない、これは私の星のプロの組み合わせです。」なんか、偉そうに答えていて、イエズスキリストの真似かと言われたこともありました。
今はというと、デジタル時代ではもうプロのメインカメラがあまりにも高額で手が出ません。私はもう長い間にプロのサブカメラでかろうじて撮影を楽しんでいます。もちろん、これでは面白いように誰も声をかけてくれませんね。ラキー。
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ところで、話しは全く異なりますが、太極には推手という練習方があります。これも実は一種の人間の体で行う挨拶です。本当の太極推手はあまり無理して勝負はしません。推手はいかにも力学的に自身の体をいかに生かすかの練習になります。呉式太極拳には十三式太極推手法がありますが、これは決して十三個の技で相手をどういうふうに一発食らわせて片付ける方法ではありません。
十三式盘手は基本的に互いに一緒に動いていて、どちらもほとんど内外の断点や独自の動きなどがなくなっていくことを最終目標としています。
太極拳の慢架の練習は、自分自身の体の調和になります。盘手による推手練習は基本的に仲間と一緒に太極拳の感覚が上達になる練習になります。
推手はもちろん、勝負もします。私は女性会員さんとも勝負したりします。もちろん、女性の方々はこれは太極であると認めてくださっています。わかりやすく言えば、私は女性会員さんと勝負する時は絶対に女性の方よりも少ない力か、ほとんど触れていない状態で相手を少し動かすことになります。これでは、女性会員さんは負けてもご納得されます。つまり、これは太極の内勁ですね。太極を練習する者は決して女性にも男性にも力で勝負してはならないと思います。そして、学ぶ方の為には、喂勁も走勁も積極的に行うべきですね。
もちろん、狂人格闘家からすると、俺の一発のミドルでお前はきっと倒れるでは、このような見解は別に今日から始まったわけではありません。
太極は世界文化遺産になったとは言え、最高レベルの嫡伝による盘手練習の凄さは単独で世界文化遺産を申請してもよいくらいに凄いものがあり、これこそ道が申す「手談」であり、太極の推手練習は一種の体による長い挨拶であります。もちろん、これも「延年益寿不老春」の一環になります。
太極は打撃が出来ないわけではありません。当家嫡伝の打撃はもうすでに「陳呉比武」の時に証明されています。しかし、文明社会と法治社会の今日ではこのような技を練習しても決して人様に出してはいけません。人年前の夏に池袋の地下で格闘っぽい人間と一般人の殴り合いを止めた際もこのような技の一つも使っていません。
太極は本当に他派武術と合わせた瞬間に、相手の僅かな欠点が出る前にすでに出撃していますね。動画で拝見してもはっきりとした動きの欠点がある人間ならば、もう話しにはならないと思います。
お正月の連休になっていますが、会員の皆様、慢架の練習をしていただければ幸いです。
よろしくお願いします。

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