第1991話 昇椎、収胯
- 2021/02/21
- 00:35

古代中国の太極用語では、「昇椎」という言葉を使うことがあります。古代でははっきり言って、頚椎も胸椎も腰椎も一本の脊椎として解釈されています。まあ、日本語と中国語にははっきりと脊椎という言葉がありますね。脊椎全体が骨盤が動いていない状態で上昇するとすれば、腰椎と骨盤がはっきりと離れていなければ決して成し遂げられない話ですね。いつもブログを呼ばれている方からすると、私は確かに開胯についてかなり語っておりますが、本日は特に開胯の難しさと脊椎が骨盤から離れる時の難しさに触れてみたいです。
人間の骨盤は一定レベルで上半身の体重を支えることを分担しています。人間の上半身の重さは骨盤の支えがなければ、人間の細い脊椎ではなんとか支えられてもすぐに曲がってしまうことなります。当然、骨盤の支えの分担がなければ、脊椎のほとんどのところは石灰化になって、体重を支えることになります。脊椎の一節ずつがすべてみずみずしい状態であれば、分担がほとんどないままでは脊椎だけでは自身の体重は支えられません。よって、西洋医学的な見解では人間の腰椎が単独であまり動けないことは、動きすぎていれば体重を支える役割どころではなくなるわけです。人間は腰椎周りの筋肉は一定レベルの力で腰椎が曲がらないようにサポートしますが、筋力も歳とともに衰えて、脊椎全体は加齢で歪曲と縮みが激しくなることはこれです。
人間は基本的に仙腸関節と骨盤は軟骨で繋がっています。それでも上半身の体重が支え切れないならば、仙骨と骨盤の間に石灰化するように体が自然に調節しますね。人間は直立という義務があり、人間の骨格が結果的にこのような惨めな状態になります。
太極門では今日も多くの理論家が偉そうに「昇椎、収胯」を語っていますが、脊椎が骨盤から離れて、人間自身の体重は何によって支えられるのかという問題、近代医学の最も基本的な常識は覆すことはあり得ないことをどれほどに理解したかは本当に微妙ですね。
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結果から申した方が一番わかりやすいと思います。人間は骨盤から離れた上半身を上昇させるのも、その時に自身の上半身の体重を支えるのも内勁になります。近代医学ではどうしても解釈できない体重を支える問題はこれで一応答えが出ます。「内勁」です。
太極勁を習得したものは自分自身の体重を一般の人間と異なる体重の支え方をしています。
内勁ができれば、脊椎と骨盤は自然に離れます。内勁で脊椎が上がれば、骨盤は自然に止まっている状態になります。もちろん、これが「落胯」です。落胯は、骨盤を無理していくら低くしても落胯にはなりません。つまり、骨盤と脊椎が離れていなければ、落胯もあり得ないです。
そして、骨盤と脊椎が完全に離れていれば、この一瞬、収胯も結果として現れます。もちろん、人間の体の中で真空ができれば、かかってきた者は一瞬にして渦にかかっている状態になります。これがいわゆる「鼓蕩」です。
当家のほとんど練習もしない直系弟子や嫡伝者を含めて、堂々と彼らも時折ネットで動画を出していますが、近代社会では太極はいかに相応しくないのかはネットの色々な近代の巨匠の動きでわかります。
懸命に「鼓蕩」などを語っている人に限って、その太極慢架がどう見ても自分で虚実を潰しており、結果としては自身の死にかけている骨格の動きをとことん逃げた形であって、このような動きでよくも「鼓蕩」などの近道がまったくない最上級の太極勁を語るわけです。
当研究会は多くの教室と正反対の練習をしています。つまらないと言ったら確かにそうかもしれませんが、太極は高い目標を目指していますので、時間はかかるわけですし、つまらなくても我慢しかないと思います。
太極の目標はこうなります。どなたも知っていますよね。
「想推用意终何在,延年益寿不老春」
推敲と用意をことごとく想って終に何が在らん
延年となり寿命を益し不老春となす
これほどの高い目標ですので、つまらなくても価値があろうかと思います。もちろん、実際に面白い練習も沢山ありますね。
よろしければ、一緒に練習しましょう。

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