第2549話 2022年10月29日
- 2022/10/29
- 08:44


私の祖母の同門で後に中国山水画の歴代トップになったくらいの実力画家は生涯、名誉や金銭を捨てるように生きていました。私ともかなりのよい関係していた陸俨少先生は祖母と同じ師匠の本で絵を勉強していました。その師匠と言えば、中国清朝末期海上派巨匠の馮超然先生ですが、先生は陸先生にも祖母にも同じことを仰いました。「芸術は少し献身的ではないと成り立たない」と、つまり、大先生の大体の意味は、芸術を修練する人は毎日の芸術作品や演奏でいっぱいいっぱいです。どうやって金儲けするとか、どうやって有名になるとか、どう同業者の競り合うなどは考えられないと言っていました。
その約60年後、馬岳梁という中国清朝末期に生きていた人は、私にほぼ同じことを教えてくれました。太極は芸術であり、あなたは毎日のように自分自身の修練が大切です。鑑泉の晩年は何故慢架があれほどに美しくてあまりこの世の者と思えないだろうかと聞かれ馬、私(馬岳梁)は彼が毎日のようにただ自分の訓練に没頭しているだけだからです。他の流派との競り合いもなく、無理して弟子を取ろうともしていない、太極以外の金儲けもしていないと、まあ、芸術をこよなく愛する者は何故か似てきますね。
そうなると、自分自身はどうだろうかと言うと、より豊かな生活を求めているために母国を離れるまで貪欲がありました。まあ、当時ではこのライフスタイルが流行っていましたね。馬江豹先生も結果的に欧州に渡り、太極拳を異なる人種の方々に伝授しました。もちろん、これは馬岳梁先生も承認済みでした。共通して、私は日本に渡ったあのですが、自分は日本に来ても太極拳をまったく教えていません。これは、当時の自分では太極拳一本で食っていけないからです。馬岳梁はドイツに渡っていた頃に多くの人に歓迎されていました。東洋からの神秘的な太極拳先生だと…しかし、馬岳梁先生は来日さえできませんでした。確かに馬岳梁先生は当時の1984年の武術雑誌では紹介されていましたが、彼を招聘する団体はこの私では探すことが不可能でしたね。これは私の無能です。私は馬岳梁先生を日本に招聘しようと実際に多くの太極拳団体に連絡して見たのですが、「馬岳梁は誰でしょうか」との反応がほとんどです。
馬岳梁先生は1998年にこの世を去りました。
自分は何度も先代の二人に謝っていました。自分の無能ですと、二人は私に何を言ったのかというと、太極を練習するものは多くの犠牲を払わないといけないです。それなりの時間をかけて練習しなければなりません。どう有名になるとか、どう巨匠に上り詰めるとかは何も関係ないと思いますね。
しかし、考えてみると自分は9年前までは、どうやって日本で普通に定年退職できることを努めていました。自分はあまり太極拳を教えたくなかったです。日本という国は太極拳教室の競争が激しすぎると感じたからです。もちろん、すべては平等の競争ですね。私の教室の隣の部屋も太極拳の教室です。教える人間は流石に声をかけて来ないのですが、学ぶ方からは時々声がかかっていますね。まあ、同格、または上から目線ですね。
ですので、太極芸術を修練するには一定の犠牲が必要です。本当はできれば、山奥へ行って、誰からの邪魔もなく、どこどこの流派との競争もなく、自分自身の葛藤もすべて脱ぎ捨て…まあ、これは近代社会の中ではほぼ不可能ですね。
教室ではできる限り、老壮思想の「無為無争」の元で練習しています。よろしければ、一緒に練習しましょう。

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