第397話 登多景楼
- 2016/09/23
- 00:34

紀元後1188年、中国は宋朝の淳熙十五年との年号の頃に、著名改革派詩人の陳亮の《念奴娇·登多景楼》は実に多くの政治家や思想家を泣かせました。
中国の東晋と南宋の二つの時代はかなり似ています。この二つの時代での中国はともに、北方の強敵に攻め込まれては揚子江の南へ逃げ込んで首都を移る様です。
危楼还望,叹此意,今古几人曾会?鬼设神施,浑认作、天限南疆北界。一水横陈,连岗三面,做出争雄势。六朝何事,只成门户私计?
因笑王谢诸人,登高怀远,也学英雄涕。凭却江山,管不到、河洛腥膻无际。正好长驱,不须反顾,寻取中流誓。小儿破贼,势成宁问强对!
この詩の上篇は東晋を批判しているようになっていますが、宋朝は結局、政府を直接に批判することは許されていないような気がしますね。「只图门户私计」とは、あまり積極的に領土の回収に努力をせずにしてただ、現有の限られている領土で満足することになります。
「危楼还望,叹此意,今古几人曾会?」とは、東晋にしても南宋んいしても小さな利益を守っていて、多くな利益を失うことになります。
私は政治家でもないし、偉人でもありません。道教思想を継承しているひとりとしてはあまり、大きな利益や大きな目標をも立てていませんね。いずれ、機会に恵まれ自然状態のバランスが取れている中での一定の飛躍があれば大満足いたしますね。
ところで、中国を南と北で分けるのもおそらく、東晋の時代から始まっていましたね。
今日では色々な分野で南派と北派が議論し、分野以外の人間でしたら全く理解できないケースも非常に多いです。
今日の日本語と中国語の中に南下、北上という二つの言葉があります。もちろん、これは地図で方角を定める際の言葉であり、漢字中心の中国では哲学的なメッセージ性のある言葉はなかなか多くないでしょう。
何事も南北で別れることは本当に心痛の限りです。
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