第461話 面子文化の違い
- 2016/11/26
- 00:09

奇しくも、日本語と中国語の両方にこの「面子」と言う言葉があります。しかし、私は最近、日中の面子の違いを少し感じはじめてきたこともあって、周りの方々に確認をしたところ、日本人の皆様も感じているようです。元々、文化や基礎教育の違いでこれが生じるのは当たり前ですが、日本国に長く居候し過ぎることもあって、自分自身の感覚が日本国に同化されている錯覚は自然に生まれてしまいます。
こうなれば、私はこの国で感覚的なずれにぶつかることになります。言い換えれば、日本国で住み続けたい私は基本的に日本のすべてを研究しなければなりませんが、人々は最低限度の面子で生息していることを考えると異なる国民性から来る面子を理解できなければ、人間関係で躓くことも避けられないでしょう。
28年間も日本国で生活をしてきましたが、これは、今日になって誇りではなく、自分自身の人間力の足りなさとして尾を引いているようなら、本当に無念の極まりです。
ところで、私は武術を教える際での手合では多くの武術家と違って、勝ち負けに拘らず面子をほとんど考慮しません。これは、武術におけるもっと上のレベルを目指すならどなたにも負ける覚悟をするのは常識だからです。個人の感覚では武術以外のことにおいてもあまり面子を拘らないことに近いかもしれません。自分自身の面子の感覚で周りの方々を測り、勝手に押し付けることは言語道断です。しかし、私も無意識の内に、自分の面子の感覚を他者に押しつけていた可能性もあります。人間との繋がりが大切な近代社会では、周りの方々の色々な異なる面子を学習し、尊重し続けることが人間関係の基本だと認識することが大切だと感じました。
少し遅いように思いますが、近代人は生涯学習に徹するしかありません。自分自身への気付きと糾明が大切です。頑張ります。
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