第468話 求静不求動
- 2016/12/03
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世界の様々な太極に関するページは本日のテーマの「 求静不求動 」を最高の太極状態として語っています。わたくしもこの見解を反対していません。人との格闘の中での静止状態とでも解釈しようか、このように手合の常識を覆すことはおそらく太極のみでありましょう。
昨日のブログでは、太極の意を語って参りましたが、しかし、私達は果たしてどれ程に意の働きが正常になる為の脳の集中に預かることがてきるのかは、すべての人間がそれぞれの心に問うべきだとの回答が一番適切かもしれません。私は先日、脳外科の専門家に太極の脳が真っ白である状態が最も望ましいとの見解を示したのですが、逆に、脳の専門家は人類の脳が真っ白になることがほぼ不可能との見解を示されました。当然、この見解は医学と自然科学が証明しており、私も科学や医学を無視する太極修練はよい結果を得ないと確信しております。
元々、中国古代の道教思想は今日の医学の見解とほとんど同じです。道教本来の考えとは、太極修練の際に人間のレベル低い集中からレベルの高い集中へのプロセスが意の修練になります。上級者の意は限りなく、脳の相対的な真っ白状態から生み出す電光石火のような指令になり、それは更に体のすべての領域とも繋がり続けているはずです。この状態は太極専門用語ではこう申します。「人不動、我不動、人微動、我先動。」これこそが本日のテーマである「 求静不求動 」の意の境地になります。
意の修練は人間の修練そのものになります。人間的な落ち着たい十分ではない私は、拳法よりも人間の修行が大切であると、近々感じております。そして、本日の静を求めるテーマに於いては、同じく太極拳名付け親の王宗岳の言葉を引用させて頂きます。
王宗岳が曰く、「動之則分、静之則合。」は実は、太極十三勢の棚勁を語っています。適当に動けば、体のパーツの協調性が欠け、落ち着きの元で動くと全体の動きが統合され、人体実験は一つの単位での動きになることが、王宗岳の宗旨だと認識しております。そうすれば、本日のテーマである静と動の真意は解明されるはずです。
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