新天方夜譚物語第5話 人間力
- 2015/08/28
- 00:01
昨日の記事では、人間力に言及しております。本日は人間力の種類について考えたいです。勿論、思想や宗教、信条や受けた教育で人間力の定義づけもきっと違います。
日進月歩の技術により、Facebookでは、お坊さんや神父さんのブログは自然と現われてきます。それらのブログを拝見すると当然のようにそれぞれの宗教の色がかなり強いですが、社会の中で「先生」と呼ばれる聖職者もおそらく、下積みの頃から苦労を重ねてきたことは言うまでもないです。
しかし、先生達が人間の苦しみに対する見解を見てみるとそのほとんどが神様からの賜物としての認識がかなり根強いです。勿論、それぞれの宗教がこのような解釈であれば、仏教学や神学の論文としては申し分がないですが、人間の悩みや苦労は例え、神様がご存知であっても、人間のことの研究があまり足りない神学の専門家が偉そうに人々の苦労を語るべきではありません。
神の代弁者の立場で人々の様々な悩みを分析したいなら、謙って人間の苦労を研究することですね。これが、一種類の人間力の養成でありましょう。これは別に聖職者ではなくても出来ます。
一定の社会的な立場を有する者なのに、その権力や威厳というものを振るわずにして、普通に人々と接することが出来る方がいます。勿論、少ないと思いますが、自分の人生の中では数人の者に出会っております。中国人といえば、太極拳の師匠の馬岳梁先生がそうですね。日本人と言えば、自分が大学の時の経済身元保証人の岩垂 和彦さんです。岩垂さんは会社の常務という立場でありならも、いかなる場合でも本当に謙って、人様の話を最後まで傾聴していました。今日になって、この二人はもうこの世にはいませんが、上に立つ人間でなんとか自分自身を殺しても、自分よりも身分が低い人間と同等レベルの振る舞いができることも一種類の人間力だと思います。
確かに、神様は謙ることの専門家ですね。人間界で自分の著しい身分を低くするものは必ず信仰を持っているとは限りません。よって、人間力と神学は基本的に別物として扱えばよいではないでしょうか。
自由社会では当然、信教も自由ですが、宗教のベースで人間力を育とうにしても、その人間力はきっと、偏ったものになってしまいます。
聖職者と社会的に高い身分の方の次は、社会の中でほぼ同等レベルの人間同士の間のお付き合いの中で、出来るなら隣の人間を引き立てることで、一番身近な小さな平和を作ることも、私の感覚では人間力養成の一つになります。
結果を先に言ってしまうのは、この種類の人間力の養成が困難だからですね。人間は同等レベルという条件では、互いに認めない習性があります。これは他でもなく、平等という人間の自己中心的な言葉が様々な不平不満を作り出しているだけです。
同レベルに於いての寛容と謙遜は、最も上級な人間力になります。
人間力は基本的に人間界で、人様との付き合いのこつであり、折角の人生が楽しくなる保証でもあります。
そして、神様の言葉では、敵の為に祈るとの教えがありますが、これはおそらく、神様自身の超人類的な存在の現われでしょう。敵をも見方に出来ることは、もはやこのような人間力は雲の上のような存在ですね。
しかし、この世に人に挑戦をすることは、永遠に終わりがありません。人間は自己中心で他人の利益を優先することはなかなかできないです。
皆様、少しでも人間力の向上の為に頑張りましょう。

日進月歩の技術により、Facebookでは、お坊さんや神父さんのブログは自然と現われてきます。それらのブログを拝見すると当然のようにそれぞれの宗教の色がかなり強いですが、社会の中で「先生」と呼ばれる聖職者もおそらく、下積みの頃から苦労を重ねてきたことは言うまでもないです。
しかし、先生達が人間の苦しみに対する見解を見てみるとそのほとんどが神様からの賜物としての認識がかなり根強いです。勿論、それぞれの宗教がこのような解釈であれば、仏教学や神学の論文としては申し分がないですが、人間の悩みや苦労は例え、神様がご存知であっても、人間のことの研究があまり足りない神学の専門家が偉そうに人々の苦労を語るべきではありません。
神の代弁者の立場で人々の様々な悩みを分析したいなら、謙って人間の苦労を研究することですね。これが、一種類の人間力の養成でありましょう。これは別に聖職者ではなくても出来ます。
一定の社会的な立場を有する者なのに、その権力や威厳というものを振るわずにして、普通に人々と接することが出来る方がいます。勿論、少ないと思いますが、自分の人生の中では数人の者に出会っております。中国人といえば、太極拳の師匠の馬岳梁先生がそうですね。日本人と言えば、自分が大学の時の経済身元保証人の岩垂 和彦さんです。岩垂さんは会社の常務という立場でありならも、いかなる場合でも本当に謙って、人様の話を最後まで傾聴していました。今日になって、この二人はもうこの世にはいませんが、上に立つ人間でなんとか自分自身を殺しても、自分よりも身分が低い人間と同等レベルの振る舞いができることも一種類の人間力だと思います。
確かに、神様は謙ることの専門家ですね。人間界で自分の著しい身分を低くするものは必ず信仰を持っているとは限りません。よって、人間力と神学は基本的に別物として扱えばよいではないでしょうか。
自由社会では当然、信教も自由ですが、宗教のベースで人間力を育とうにしても、その人間力はきっと、偏ったものになってしまいます。
聖職者と社会的に高い身分の方の次は、社会の中でほぼ同等レベルの人間同士の間のお付き合いの中で、出来るなら隣の人間を引き立てることで、一番身近な小さな平和を作ることも、私の感覚では人間力養成の一つになります。
結果を先に言ってしまうのは、この種類の人間力の養成が困難だからですね。人間は同等レベルという条件では、互いに認めない習性があります。これは他でもなく、平等という人間の自己中心的な言葉が様々な不平不満を作り出しているだけです。
同レベルに於いての寛容と謙遜は、最も上級な人間力になります。
人間力は基本的に人間界で、人様との付き合いのこつであり、折角の人生が楽しくなる保証でもあります。
そして、神様の言葉では、敵の為に祈るとの教えがありますが、これはおそらく、神様自身の超人類的な存在の現われでしょう。敵をも見方に出来ることは、もはやこのような人間力は雲の上のような存在ですね。
しかし、この世に人に挑戦をすることは、永遠に終わりがありません。人間は自己中心で他人の利益を優先することはなかなかできないです。
皆様、少しでも人間力の向上の為に頑張りましょう。

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