
北海道入りの際のブログはいつも、飛行機の中やレッスンとレッスンの合間を縫った書いております。最初はいつもよりも多い誤字脱字で戸惑っていましたが、徐々に慣れてくるとこれも一種の快感になりつつあります。中退した大学の先生達はいつも、このような現象を神様の御計らいにしていましたが、わたくしが感じている真の哲学者の見解ならば、これは人類の限界に近い適応力ではないかと思います。
しかし、真の哲学者であれば、人間の一生では数多くの変化に適応できる能力を備わっていける努力を認め、それを率先して実行することが当たり前に思います。わたくしが敬愛する日本国の哲学者の松岡 正剛先生は本当に模範的な存在です。日本国では何故か宗教学者が哲学を教えるケースがかなり多いですが、西洋の宗教学者はほとんどと言ってもいい位に人間のすべての能力が神様からいただいた賜物として解釈しています。適応力も例外ではないようですね。
違う角度から申すと、東洋医学から西洋医学に渡っては、人類の体のほぼ毎日の変化が避けられない論説は確定されているはずです。医学が門外漢のわたくしは新陳代謝と言う言葉位しか知りませんが、太極の専門家としての見解はこうです。人体は毎日の一刻ごとの変化への適応が必要。教える立場の人間は自分自身の修行によって、一人ひとりの学ぶ者が適応できることの知識を身に付けなければなりません。 これではじめて、個々の異なる人体と個性の日々の変化へ対応できます。
結論からすると、太極修練は人体の一刻ごとの修正になります。太極の練習はいくらしても余ることはありません。かつての太極先人達はお食事と睡眠意外にほとんど練習していました。それでも彼らは、常に変化し続けている人体への対応には間に合わないと感じたようです。逆に、太極修練によって、体の調和が実現し、一定の自由が得られた人は一定の変化をも求めます。これは当然、もっと自由に動ける動き、部分的に省略できる動きへと微調整するものです。かつての楊式太極には、大架、中架と小架があり、体が一定の自由を得たところで自然ともっと自由に動ける違う太極へと変化迄しますが、当家はもう少し保守的であり、初心者と上級者の太極基本拳の変化はほんの僅かにとどまっています。しかし、太極は不変のものではなく、徐々に完成へと向かっていく途中、もっと、自由になって、もっと自由に無駄のないように動けば、太極拳の動作も少しずつ変化するはずです。指導者はこれに気付く実力を養い、常に積極的に学ぶ者にアドバイスすべきです。学ぶ者も太極の変動性を認め、微調整に応じるべきです。
もちろん、人の体の変化は年齢やその他の諸事情で感じ方がまちまちですが、練習し続ければ、変化はあるはずです。どうしても変化を感じないなら、その練習方法を見直しすべきではないでしょうかね。
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