第831話 沿路缠绵、静運無慌
- 2017/11/29
- 11:09

ここでの中国語の沿路は道沿いと解釈すべきです。我々の体の中の色々な通路のことです。経絡による道、血液の流れ、力の伝達のすべてです。
缠绵は色々な解釈があり、自動詞では病気や感情的なまつわりつくこと、取りついて離れられない様子と解釈。形容詞では柔らかくまとう様子ですが、一部の日本語辞書では美しく心が打たれると解釈しています。
人間の中にある内勁は静かに柔らかく、隅々の小道まで穏やかに流れていれば、体がどれほどの喜ばしい状態になろうかと言っています。我々がゆっくりと太極慢架を練習している時に全身のどこも力を使っていない状況で我々の体のパーツが自然に伸びていれば、もちろん、すべての通り道に内力が流れます。当然、その為には、我々の体をしっかりと中定を守った上で動かす必要があります。武術ではないから中定があまり必要ではない考えや、美を見せることで体が必要以上に動くことなどはただ、通り道の色々なところに障害物を設置しているだけです。それなら健康も無理です。
静運無慌、静は穏やかに落ち着くという意味になります。当家なら快架があって、陳氏も一部では制定套路ではない発勁の伝統拳を残しておりますが、例え、激しい動きや発勁動作でも内力の流れや力の伝達は穏やかに行うべきです。運という字はここで自動詞的な存在になり、内力が自然に流される様子が伺えます。我々も全身の内力を一箇所にいきなり流れ込む発勁をしますが、これは決して何か体の力でできるものではありません。そして、本当の上級者はこれができるにしてもあまりこの能力を使おうとしません。
ここで、太極理論の「少発多積」原理が納得できるようになります。我々は数十年かけてやっとのことで一定の内力の密度を得ているとして、一日でも練習をしていないとその状態はすぐに不安定になります。そうすると我々の日々の訓練は当然、静かに流れることによって我々の通路が確保され、内力が常に維持されていくことを唯一の目標にするしかありません。
自画自賛で誠に申し訳ございませんが、数年前から私の推手が一種のイリュージョンではないかと言っている方がいます。もしもこうであれば、おそらく数十年の間に「沿路缠绵、静運無慌」を守って来た結果でしょう。会員の皆様も徐々にやってみてください。
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