第965話 三百六十五里路
- 2018/04/12
- 11:24
思い起こすと、改革開放のはじめの頃にこの名前の中国語の歌がありました。あの歌は一年を三百六十五里の道程に例えています。当然、人生はいくつの三百六十五里の道程で構築されるのかは誰もがわからないです。
昨日、わたくしは日本国での三百六十五里の道程は丁度、三十個を揃いました。しかし、人生はこのようにして、一里一里を歩んでいくだけです。
先般、日本人の方が鑑泉社正社員になる希望者に申込書を紹介する際に、同じ漢字系の国でも中国語では日本語の「お仕事」のことを「工作」、Workとして解釈しています。当然、日本人の方々はかなりびっくりしますね。
わたくしが感じる日本国の独特な一日は、日本国民はWorkを奉仕するように解釈しています。奉仕する一里の道程の重みは違います。
しかし、最近の日本社会でも「お仕事」という意味での奉仕的なWorkは減りましたね。量販店に行けば、ままならない接客。レストランに行けば、日本人なのに意味が通じない日本語。電話による色々な商売の加入は絶えないですが、提供されたサービスに対する説明は乏しく、このサービスの良さがなかなか見えてこないこのが多いです。これは、多くのご年配の日本人もかなり感じているようです。
ところで、太極を伝授することは本来、一種の奉仕のような気持ちがなければ、なかなか上手くいかないことは、今日になってはあまり知られなくなったことは実に悲しいです。
かつての師匠は初心者とほぼ同様の練習し、初心者に自分自身で欠点を使ってでも太極の状態を伝えていました。大昔から、師匠が弟子に欠点を見せれば、師匠が弱くなったと判断されるケースがほとんどでした。今日の中国では、師匠は推手で一歩動いた時点で弱くなったと判断されてしまいます。
このような状態で、大昔から太極拳の著名師匠は家庭の中でしか本気で太極を伝えたくないことは今日になってなんとなくわかりました。当然、常識的な日本人は太極を伝える際の独特な奉仕する気持ちは一定レベルまで理解していると確認しております。日本人は太極に適していると申し上げているのは、これも一つの大きな原因ですね。
太極を長く続けている者の一里の道程は少々独特です。
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